白鶴拳の発勁についてなど、書いたりもしましたが、あくまでこの段階でのお話ですので、確定した物だとは決して受け止めないでくださいね。
その前提の上で書きますけれども、いまの理解の段階に至る前までは、この発勁が全然理解が出来ていませんでした。
老師の動きを見ると、自分がこれまでやってきたタイプの物とは違うことだけは分かるのですけれども、どういうものだかわかりませんでした。
打った後に何か引き戻しがあるのですけれども、それがなんだかよく分からない。
中国武術だから手で引くということはないのでしょう、というところまでは分かりました。
私がこれまでやってきた発勁には引きは関係ありません。
ですので、発勁と引きがどう関係があるのかがわからないし、なぜ引くのかもわかりませんでした。
しかし、それがいまの納得に至るきっかけがありまして、それが老師が教えてくれた水行掌と木行掌の基本練習でした。
これ、師父が太極拳で教えてくれた摩板功にそっくりです。
その上で、丹田での発勁だと老師が教えてくれたので、言われた通りに身体を繋ぐようにしました。
そうすると、確かに繋がって掌が出せます。
あ、こうなるんだ、と思いました。
振り返れば、白鶴拳は私の五祖拳における開門式でした。
そこで套路はやっていたのですが、套路を繰り返しやっても何もわかっては来ませんでした。
やはり、基本拳とその要領についての理解が必要です。
この練習で色々なことが繋がって、丹田で打つと言うことは丹田で引けばよいのか、という解釈に至りました。
太極拳と白鶴拳の共通というと、台湾でそのような練習が行われているという話を聴きますが、確かに共通項が多いのかもしれません。
ここからは特に現状の仮説としての要素が強まるのですが、いまは私はこれを開合で言うなら開で打っています。
これを読んだ人で真似をする人が居るかもしれませんが、おそらく無駄になることでしょう。
これは得勁が出来ているから可能なことで、勁が無ければどれだけ開合をしても腕にはつながらないので無意味です。
あくまで私はすでにそこまではやっているので出来ていることです。
そしてその場合、平素は合で打っています。
というのも、蔡李佛には開が無い……。
それに、開で打ってしまうと一時的な力しか出せなくて打った処で力が尽きてしまうので、私はどうも好きではなかったのです。
ですが、ここに引き戻すという要素が入ると、力が尽きるという問題が解決されます。
尽きるころにはもう合にして引き戻しているので大丈夫なのです。
更には、この引き戻しのタイミングに発勁を合わせれば、まさに水を切るように、柳がしなるようにして発勁が行えます。
そしてこれが出来ると、手が伸びている間のどこにこれを合わせてもそこから短く発勁出来ます。おぉ、すごく白鶴拳らしい寸勁ではないですか。
この、丹田と繋げて開合をタイミングを調節して行う、というのは難しいことです。
慣れるまでは結構にエクストリームなやり方となります。失敗するとなんの力もなく失速してしまう。
だからこそ、やれると面白いのでついつい癖になって繰り返してしまうところがあったりします。
このやり方でやれば、いままで分からなかったことが全部繋がって矛盾がありません。
恐らくはこれで大丈夫なのではないかなあ。
こうやって、自分の身体に備わっていた眠れる機能に驚いて感動できる。これを目覚めさせることを可能にした先人たちの学問に驚嘆する。これは、物がなくても充分に楽しめる、実に面白い人生ではないですか。