老師の門では、私たちはそれぞれ別の拳を練習しています。
自分が木人や基本功をしているその同じ部屋で、通背を練る師兄が居て猛烈に掌を飛ばしており、片やでは友人が回族の風格溢れる雄大な八極拳を打っています。
私はこの景色を観るたびに、とても幸せな気分になります。
ちゃんとした功は、人の感性に訴えかける。
心に染み入る味道があります。
師兄の通背は飛び回る猿猴か鷹のようでいわば空の拳。友人の物は大地の拳。そして私は、海の拳と言えるでしょうか。
それぞれに個性に合った物であるように思って、人がそれぞれに合った生き方をしてよいという自然界の自由が感じられる。
そのような練習が終わったこの間、老師が私と友達に「八極拳は本当にやるとすごく恐ろしい武術だ。五祖拳よりも恐ろしいよ」とおっしゃいました。
あぁ。
なるほど。そういうことがあるのか。と思いました。
私はあまりそういう風に考えたことは無かったのですが、確かに、しっかりと硬功をやり、功夫を練り上げ、爆発的な威力でまっすぐに槍のように突き込んだなら、本当に恐ろしい威力を誇る武術なのでしょう。
木人などをやるように、私が教わっている鶴法はそれに比べるとまだまだ技巧的なのではないかと言う気がします。
八極拳は悠久の黄土の武術なので、大きく大地を踏みしめるからそのようになるのでしょう。
五祖拳は海辺の武術。足の埋もれる砂浜や、狭くて人工的な船上で戦う物なので、大きな動きとは違った物になります。
中国武術の威力は歩幅で生じると言っても良いでしょう。
その足から大地の陰の威力をもらって相手に伝えます。
歩幅が狭いと、その分だけ威力がところがあります。
とはいえまぁ、砂浜や甲板の上で飛び込むという訳にはいきません。
それで良い。私は海が好きなのです。空や大地と同じように。
木人をしている自分の背中を友達が「自分で観ると良い」と動画で撮ってくれたのですが、まぁ大きな背中がチマチマしたことをしている、と思いました。
五祖拳は基本、肘が脇を離れません。
大変に小さな動きとなります。
しかし、これが威力が無いのかと言うとそこには実は異存があるのです。
というのも、そもそも私が五祖拳を始めたきっかけは、この武術が心意系の文脈を継いでいると聴いたからです。
その研究をしたかった。
確かに、小さく技巧に長けた白鶴拳の部分を注視するならば、そんなに威力特化の武術では決してありません。
ですが、その先にある心意拳の要素、すなわち五祖拳のルーツの一つである羅漢拳の部分に達するならばどうでしょうか。
これは蔡李佛でもそうなのですが、南少林は少林ルーツと言うだけあって、最後にはそこに達するのです。
そう言う視点で見るならば、五祖拳は物凄く形意拳や心意六合拳に共通性があります。
なおかつ、ウィンチュンのように連打特化でもありません。
一発一発で倒すという構造が存在しています。
歩幅は狭く、肘は肋骨を離れないというこの心意との共通要素を満たしながら、威力を出すことは恐らく可能でしょう。
私はもう人は打たない予定ですがしかし、その功と内力を求めながら練功をするからこそ、心身が静かに整えられてゆく。
大切なのはそのことです。