生化学的トレーニングとして腕立て伏せ模索しているのですが、そうしているなかで「腕立てチャレンジ」なることをしている人たちを見つけました。
一か月間毎日腕立て伏せ100回チャレンジです。
やはり、100と言う数字が一つ生化学的な区切りとなるのでしょうか。
また、強度を追求していないというところも生化学的です。
もし、本気で100回の腕立て伏せをするならば、セット数、インターバルなど、厳密に規定することが多々出てくるのですが、決してそんなことはありません。
とにかく一日の間に、何度区切ってもいいから100回やりましたと言う既成事実をこなせばOKという物です。
また、一か月毎日ということも、筋細胞の超回復で考えるなら非合理で、明らかに本気でやるなら負担が大きすぎて障害の元になる物です。
なのでその辺りが、可能な程度でやる、ということが前提です。
ビフォー、アフターで観るならば、挑戦した人たちがみなちゃんと上腕三頭筋の成長をしているのが確認できました。
やっている人たちがみな、イキイキとしている様が見られるのが面白いところです。
その中でも、特に彼らが非常にチャーミングで面白かった。
インド系の男性と、白人種の男性ですね。
日本人だと、どうもフリーターや大学生のような方がこのチャレンジをしているようなのですが、海外ではこういうビジネスマンがしているところが面白い。
その中でも決して、ゴリゴリのパワー・エリートみたいなマスキュラ―な男性たちではなくて「お兄ちゃんがトレーニングなんて笑っちゃうわ」なんて家族から言われるような、優しそうでおとなしそうな人達です。
それが、忙しい日常の中でどうにか時間をやりくりして腕立て伏せをやっていきます。
出勤前に10回、会社の会議室で10回、友達の結婚式会場の駐車場で10回、と、どうにか限られた時間の中で自分の目標を達成しようとトレーニングをしてゆきます。
これは、まさにこれは私たちの姿ではないですか。
誰にとっても一日は24時間、仕事やプライベートはみんなある。その中で、どのようにして自分を高めるためのやりくりをしてゆくか。
挑戦者の二人の男性は、どちらも自分の弱さを自覚しています。
だからやってみたいと思ってチャレンジし、周りの人に笑われながらもなんとか毎日ミッションをこなしてゆきます。
やがて「他人にどう思われても関係ない。とにかくぼくにはこれをやることが大切なんだ」と最後までやり抜きます。
私たちが生き方の中に取り入れている、功夫とは「時間」という意味です。
誰にでもある時間、それをなんのためにつかうのか。
自分を鍛練し、高めるために使って行く。それが功夫の意味です。
それはすなわち、生きることに向上を求めてゆく、ということです。
彼らの功夫に喝采を送りたい。