荘子を読んでいると、どうも道を知ったとしても、すべての人がそれを得られるわけではないと言うことがうかがえる気がします。
これは道教で言う仙骨が無いと言うヤツかもしれません。
もちろん、道を得る素質が無くても、道を知ることが出来ればその意味は十分にあると書いてはありますが、この辺り、やはり人を選ぶというシビアさはまるで消されたわけではありません。
また、何かを得ようとか何かになろうとして頑張りすぎることそのものが否定されており、あるがままの自己を維持することが是とされているので、あるいはそのような一定内の努力による獲得が話の前提とされているのかもしれません。
私自身、あまり他の欲はないのですが、何かになりたいという欲求が幾分あるようです。
何か興味のある物事に出くわすと、それの本物になりたくなってしまう。
もちろんそこにはエゴという物の危険さがあると認識します。
その一端として、私は詐称をする人や自己流に対して抵抗感が強めにあります。
何者かになる、ということに対する思い入れのせいでしょうね。
せせこましいポジション・トークかもしれません。
ただフィリピンでのアルニスのレッスンでも「NO LICENSE NO TEACH」と言う言葉が出ました。
この折り目はそれほどに間違ったことではないのではないかと思います。
そもそもが、なにがしかのライセンスが欲しければ正当な訓練を積んでそれを認められるというのはそんなに不思議なことではありません。
もちろん、不正な手段や義理や経済事情によってライセンスが発行されることは十分にあるため、ライセンスがあるからと言って何もかもがつつがないとは言いませんが、それでもだからと言ってそのような物が無い方がいいということにはならないと思います。
なので、なにがしかの師範や実力者になりたければその手続きを正統に踏めばよろしい。
それで力が及ばなければ、自分が成れるものになっておればそれでよろしいのではないでしょうか。
荘子の中に“もし鋼が自分は名剣になろうと言う意思を持っていたなら、創造主はそれを不吉な鋼とみなすだろう”という著述があります。
分不相応であったり不実であるような欲を持つならば、それこそはまごうことのないゆがんだエゴそのものであり、自分の命の本来ある価値を損なう物となるのではないでしょうか。
私の周りにも何人か、師から指導許可を得ながらも、人に教えることなんかよりも自分の練習の方が大切だと、教室などは開かない人が居ます。
そのような方が、資質のあるがままにマスターとなった人々なのだと思います。