我々の思想の根源である老荘思想の目標は「無為自然」です。
対立思想である儒教では「学びて時にこれをならう。また楽しからずや」と言いますが、老子が曰くには「学を断てば憂いなし」だそうです。
また言うに「学を収れば日々に増やし、道をおさむれば日々に減らす。これを減らしてまた減らし、もって無為に至る。無為にしてすなわちなさざるはなし」とあります。
卑近な例で例えるなら、格闘技を学んでいた人が、また別の手わざの格闘技を学んで技術を追加し、あるいは投げ技の武道を学んで戦法を付け加えてゆくと、それぞれの道の深さを知ってそこによりつわもののあることを学びます。
すると初めはさも自分が強かろうと鼻高々であったのが、あちらで自信を失いこちらで投げ倒されて、卑屈になってしまってまたそれらに勝ろうと同じように次のところにさまよっていき、永遠にとどまることがないというケースではないでしょうか。
それに対して、後付けの技術をはぐくむのではなく、自分自身の本質と自然の在り方を一致させることだけを意識していたなら、余計な技は消してゆくことが可能です。
我々は手技、足技、コンビネーション、そういう表層にとらわれず、ただ一つ、内側の力(内勁)だけに専心してゆきます。
そしてただ一つの勁とそれをする自分になった時には、もうその命の働きしかありません。
特別に何をしようあれをしようと言うのではなく、ただ自然な命の働きに任せるだけです。
呼吸をしたり、消化をしたり、脈拍をするように、自我が余分なことをする必要はありません。
それを目指しているから、我々は特別なことや複雑なことをしたりはしないのです。
飛んだり跳ねたり素早く瞬発したりしません。
両手を広げてただ振り回しているだけに見えるかもしれません。
しかしその本質は内側の命の部分にあるのです。
それを会得するには、肉体の深いところにある練功を積むしかありません。
それは武術でも気功でも同じことです。
それらは形が違うだけで、中身はただ命のタオの働きです。