今となっては、エスクリマというのはどうしても軍隊武術や護身術としての側面から語られることが多いようです。
私が学び始めたころはそうでもありませんでした。どちらかというと、フィリピンというあまりよく知らない国の民族的な武術という印象が強く、タイやベトナムの刀術と似たような印象を持っていました。
まぁそれだけではなく、私はストリートの物として習ったので、もちろんそういうアーバンな印象を持ってはいたのですが、やはり原理的な物としてはトライヴァルな物なのだという前提はありました。
たとえるならば、サーフィン・カルチャーにおけるサモア文化のようなといいますか。
しかしいつの間にかその印象はすっかり世の中から薄れていって、何やら近代戦の側面が前面に押し出される形でセールされているように思います。
これは商業的な戦略による誤解なので、出来れば私はそう信じられて欲しくないと思います。
おそらく、エスクリマを土台にアメリカで創作されたカリの人たちが言い出した物であったり、軍隊用にカスタマイズされたエスクリマであるピキティ・ティルシャ・カリ(これもカリですね)や、現代式に技術を統合したモダン・アーニスにおける現代要素の部分が強調された結果なのでしょう。
もともとのエスクリマというものはそういう物ではなく、もっと土着的な文化だと思っています。
大航海時代から続いた剣士たちの時代という物の遺産を引き継いでいる家伝の技術としての精神のようなものをもっと大切にしてゆきたいと思います。
それが家伝系の武術を手渡された人間としての義務であるように思います。
私にラプンティ・アルニスを与えてくれたグランド・マスタルは現職の職業軍人でしたが、けっして軍隊式の方針や技術をアルニスに混ぜるようなことはしませんでした。
私自身も、軍隊武術に関わってきた経歴があり、ボディ・ガードの職を生業としてきましたが、それもアルニスには無関係です。
素人の兵隊さんごっこではなく、本物のプロフェッショナルであり、本物のマスタルであるからこそ、ここを明確に分けることが出来るのだと思います。
どちらも中途半端なら、きっと足りない物を混ぜ合ってしまうことでしょう。
しかし、きっちりと分けることが出来るところにこそ、誇りがあるのだと思います。
その心の部分をしっかりと引き継いでゆきたいのです。
ミリタリー・オタクやナイフ・マニアに兵隊さんごっこを教える気はありません。それはビジネスとしてはシェアがあるのでしょうが、私には恥ずかしすぎます。
そんなことをして、もし万が一何か事件が起きたり、あるいはたまたま年末の職質でナイフの一本でも発見されてスキャンダルになったりしたら、実話雑誌辺りに「殺人練習サークル」などと騒ぎ立てられて生涯恥を忍んで生きてゆくことになるでしょう。
実際、私の知ってる人間でも酔って違法携帯していたナイフを振り回した自覚のない自衛官がかつていて、必死でナイフを取り上げて隠したことがありました。職業として訓練を受けている人間でさえその程度のありさまをさらしたりしかねないのです。
ましてやコンプレックスにねじくれた素人など。
我々はあくまで、民族に伝わる伝統として行ってゆきます。
マニラのエスクリマは独立戦争や太平洋戦争時のゲリラ戦の技術ではないか、という声はあるかもしれません。
それはまぎれもない事実です。
しかし、それはまずもともと現地に剣士たちという職業の人々がおり、その剣士たちの時代に外部から戦争が訪れた、という経緯の上にあったことです。
そして、外部からの圧力に対して自由と解放を勝ち取ろうと言う行動と、軍事行動そのものを目的とした訓練とは意味が違うと私は思います。
明言します。我々のグループでは軍事訓練のまねごとのようなことはしません。
なので、性的コンプレックスをこじらせたオタクが眺めてニヤニヤしているようなダミー・ナイフの使用は禁止します。
人が人として自由に生きてゆくために行われてきた普遍的な文化としてのエスクリマを受け継いで、次の世代に引き継いでゆけるようにしてゆきます。
そのための国際交流活動にも力を入れてゆきたいと思っています。
なので、男根コンプレックスがダダ漏れになっているような迷彩ファッションやカストロ・パンツの着用はお断りします。
世界の各地から来ている人達にとって、そのような物が一体どのような意味を持ち、どのような記憶につながっているのかを想像できない人間にはまず己自身をよく考えなおすところから初めていただきたく思います。
幸運にも現状たまたま平和な国に生まれ付いた我々が、現実に深刻な環境にある世界情勢上の紛争を面白おかしくエンターテインメント扱いするというようなことは受け入れかねます。
現代の日本の社会においても、自分自身の内にある拘束を離れて精神の自由を求めている人達がいらしてくださるのをお待ちしております。