中国武術では、武器は手の延長、ということをよく言います。
では、手とはなんでしょう? 心の延長?
これが実は中国武術の本質に迫るところなのです。
中国武術と他の武術の決定的な違いとはなんでしょう?
発勁?
いえいえ。それはやらない門派もあります。
中国武術と外国武術の違いは、中華思想です。
日本武道とその他の違いは大和魂、みたいな話ではないですよ。
中華思想は単に観念的な物ではなく、中華的な宇宙観にある人体観が含まれます。
どれだけチャイナ服を着て指導をしていても、この部分が説明できない指導者には気をつけてください。それは中国武術を指導しているとは言えません。
中華の人体観では、分かりやすく言うなら人間を肉体と心に分けます。
これは、人間の動物の部分と自我の部分と言っても良いでしょう。
この両者は、つながってはいても独立した別の物だと感がえます。
内臓の働きや睡眠時の寝言や驚いた時のとっさの行動などを、自我がコントロールをしていないと観る場合があります。
それで考えるなら、手はまさに手と言う肉体の管轄にあるものです。
この文章を読んでいる自我とは別の部分の物です。
そのために、自分は肉体を使いこなせてないんだ。立ててない。歩けてないというところから中国武術はスタートしないといけません。
赤ちゃんの時になんとなく覚えて以来手癖で行っている立ち方や歩き方では、術として使いには拙すぎる。
その、自分が自分の体を遣えていない、ということは、兵器を使うとはっきりと体感できるようです。
無機物が間に介在することで、生まれ持っての運動神経の良さやちょっとした小器用さでは補えない部分が表面化します(まぁ実際にはちょっとした慣れで補えるのですが)。
不確定要素が増すために、コントロールの意識が及ばずに自分の体や相手の体にうっかり打ち付けてしまったりするのは序の口です。
あるいは末端に意識が行きすぎるために、自分の体の意識がおろそかになって兵器に振り回されてしまったり。
果ては途中で全体を把握したいと言う自我の誘惑に負けて自分が何をしてるのかわからなくなって急にスイッチが切れたように止まってしまったりする人もいます。
また、相手との練習になって約束稽古で打ち込んでくるのを受ける、という前提でやっているのに打ってこられるという状況にいっぱいいっぱいになってルール無用に相手に対して打ち返しまくってしまう人も多々でます。
それは相手が可哀想。
約束事で相手の練習に付き合って打ち込んでいるだけなのに、それを破って勝手なことをする相手に問答無用で小手や体をビシバシ殴られる羽目になります。
そうなると大体私が怒ります。道具を使うといつもにもまして事故が起きる可能性が高くなるので、練習相手を思いやることを忘れてはいけません。
しかし、普段の生活では決してそのような人々も人への思いやりを忘れるということはないのでしょう。
それが、道具を持って混乱し、さらに形ばかり程度とはいえ攻撃を受けると、自分がそもそも何をテーマに何をしていたのかが頭からぶっとんで適当な大暴れをしてしまうのです。
結構な高確率で初心者の方がこれをやってしまいます。
どうしても、打たれたから打ち返さなくちゃ、というエゴに負けてしまうのですね。
本能的に身を守るための肉体のエゴです。
過剰な防衛性、その反面としての攻撃性。そう言った物と向かい合うことが、実はこのような武術の練習においては非常に重要かつ、独自の物だと思われます。
そうやって自分自身のうつろいやすさと向き合い、そのような状態の中で自己を落ち着かせるところから始めて、外部の刺激につられることなく静かな心を維持することを目指してゆきます。
我々の古流武術が目指しているのは、猛烈に攻撃して敵に勝ることではありません。
練習相手が動揺して滅茶苦茶をしてこちらの頭を割ってきても「危ないですよ」と静かに言いながら落ち着いて止血が出来る冷静さです。
これは、人の持つ弱さの克服になるとは思いませんか?
内なる弱さに飲まれなくなると、心静かに生きてゆけると思います。