さて、海賊武術祭の開催が決まり、予約もドシドシ来ております。
しかし、そもそも海賊って何? という疑問がある方もいるのではないでしょうか。
昨今ではソマリアに海賊が出たり、海賊の王様になると宣言はしたものの一度も海賊行為を働かないままろくでなしブルースのように十年以上も喧嘩をしているだけの人もいたり、よけいに実態が分からなくなっているのではないかと思います。
そのために、まずは第一歩として、実際に海賊にあったと言う私が知って居るある人の話を紹介しましょう。
彼が行ったのは南国のリゾート地。いくつもの島が点在するという場所でした。
バカンスで行った彼はダイビングをすべく、ボートをチャーターして他には観光客が居ない海域に出たそうです。
そのあたりは島陰に隠れて海賊が出没するので気をつけろと言われていたのですが、なにせ海賊など現実味が無くて半笑いで遊んでいたそうですが、潜水して船に上がったときに、知らないボートがチャーターした船に節減している。
見ると、現地の小さい子が貝殻などで手作りにしたお土産などを売り込みに来ている。
なんだよ、お土産の押し売りかよしょうがないな、とインドなどでも同様の子供たちに出くわしてる彼は断って返そうとしたのですが、向こうの船を見ると屈強な男たちが腕組みをしてじっと睨んでいるのだそうです。
その背中には軍用の機関銃。
これが噂の海賊かと彼は震えあがって持ち金をあるだけはたいて手作りの民芸品を買い占めたのだそうです。
実はこれ、ずーーーーーっと昔から行われている海賊の常とう手段なのだそうです。
海上で出くわした船のみならず、陸地でもまずは取引を持ち掛けて、上手くまとまらなければ武力に物を言わせる。
洋の東西を問わずに行われていたことのようです。
また逆に、海の上ならず、陸上でも原則的に盗賊というのはおおむねそのような物であり、それらをして中世までは商人と言っていたのだと言います。
そのため、行商のキャラバンなどは冒険家と同一視もされていました。
自分が売ることもあれば出くわしたより強い地元の勢力に売られることもあるわけで、物々しいイメージが付きまとっていたわけです。
軍閥や平安時代に悪党と呼ばれていた地方豪族と基本同じですね。ただ、それを縄張りの中ではなく、移動先で行っていた旅団であったところがポイントだった。
旅先では環境によって肉体も疲弊するでしょうし、天候によって災難に会うことも日常茶飯事だったでしょう。
その中を、隊を組んで腕を頼みに戦い続けるのですから、貿易商というのは実に勇敢な存在だった訳です。
そのため、海賊と言うのは海上貿易商人だった、というのもまた一面の事実なのです。
一例として、日本の海賊、倭寇を例にとりましょう。
日本と大陸の国境にある対馬は、昔から海賊がよく出る地域だったと言います。
それがやがて、元寇による襲撃を受けます。
しかし神風が吹いて難を逃れた、というのが有名な話ですが、実際は先に書いたようになんども対馬や大宰府には隣国からの海賊が訪れており、被害は繰り返し出ていたそうです。
さらに、神風は当然現地であった対馬にも甚大な被害をもたらしました。
そうなるとこれは、馬賊文化の中国北方と同じです。失った物を埋めるために逆に略奪をし返すのです。
つまりこれが倭寇です。
特に高麗王朝の被害は壮絶だったらしく、これによって国力の疲弊に拍車がかかってついには滅亡してしまったのだとさえ言います。
その後を継いだのが家具でも有名な李氏朝鮮です。
彼らは高麗の二の鉄を踏まないために、倭寇への対策を深刻に遂行します。
倭寇戦の専門家である李自桂が軍勢を率いて対馬に殲滅戦を仕掛けます。これを歴史では応永の外寇と呼ぶそうです。
しかし、対馬倭寇も手ごわく、ゲリラ戦にてこずっては消耗戦になっていったそうです。
そこで李氏は方向を転換。対馬の海賊衆と通商条約を結んで、海域における海商権を認めます。
こうなればお互いに儲かるのでWINWIN、以降、豊臣秀吉が朝鮮の役を起こすまで、この時の通商条約が維持されたと言います。
この時の対馬の衆が用いていたゲリラ戦法が、元祖海賊武術と言うことが出来そうです。
そして、いたずらにただ争うのではなく、あくまで利益のための手段としての闘争であり、緊張状態の中に安定を求めるのが海賊の世界だったのが伺えるエピソードです。