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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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陰流と倭寇

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 さて、倭寇の原点のようなお話に続いて、倭寇武術の話をちょっと深めてゆきましょう。
 前回は倭寇の武術として対馬のゲリラ戦を例に挙げましたが、ほかにも色々な歴史上の有名人の名前が倭寇の中には見えてきます。
 その中でも最も注目すべきなのは、愛洲移香斎でしょう。
 新陰流の元祖、陰流の始祖です。
 信憑性が高いとされる、移香斎の士官先の記録に、明の倭寇であったというらしき記述が残っているのだと言います。
 ただこれは、年表と比較すると移香斎が若いころです。陰流を開いたのは35歳であるとされているので、おそらくはその土台となる実戦経験の部分に当たるのではないでしょうか。
 そもそも、移香斎の出自である伊勢愛洲氏というのが、海賊衆(海上貿易者)であったという話がありますので、だとしたらかなり幼いころから周りの大人が遣う海賊剣術を仕込まれていたことも想像できます。
 地域的に陰流は九州地方で隆盛したためか、その後も倭寇として中国、朝鮮と激戦の歴史を積み重ねてゆきます。
 あるいはそもそもが海賊武術から派生していて、海戦や上陸戦に非常に適していたのかもしれません。
 当時の倭寇の模様を絵で見ると、まずは船同士で槍の差し合いをしているようです。
 そうやって居るうちに、船上戦の定石として、切込み要員が相手の船に乗り移り、長柄の槍を持て余すところを近場から切り倒してゆくのでしょう。
 もちろん、乗り込まれた側が迎撃しようと槍を捨てて刀を捨てれば並行している敵船からの槍の餌食です。
 このような倭寇の突貫作戦は非常に恐れられていたと言います。
 そのために、少林寺の武僧が呼び寄せられて迎撃に当たったり、高名な武術家が対応に当たったりしたと言います。
 しかし、倭寇側もただの散発的な襲撃ではなくなる時が来ました。
 明の出した海禁(海上を使用した貿易の禁止令)に反抗した倭寇や中国、朝鮮の海上貿易商人、および日本の石見銀山での銀などに目をつけたポルトガルやスペインのヨーロッパ勢が東シナ海における貿易の禁止に対して、連合して反乱活動を起こすのです。
 そういった危機への特殊部隊要員の一人に居たのが、戚継光将軍です。
 外敵対策のプロフェッショナルとして活躍した一大武人です。
 彼は倭寇対策のための戦法や布陣法を研鑽して、勝利を積み重ねてゆきました。
 そのうち、討伐した倭寇からの戦利品として、陰流目録という伝書を手に入れたのです。
 それが劇的な出来事を起こします。
 彼は陰流を伝書より解釈して復元、これを独自の刀法として制定しました。
 これを倭刀術と呼びます。
 倭刀は中国剣より間合いがあり、槍で立ち向かおうとしても柄を切られる、と言われてその威力は非常に重宝されたようです。
 そのために制式装備として官軍に配備されることになります。
 つまり、陰流刀法は倭刀術として対日本にも向けられたカウンター兵器となったのです。

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