さて、陰流剣士の東シナ海での暴れっぷりを前回は書きましたが、日本刀自体はその明の前、宗の時代から大量に中国に輸出されていたそうです。
その上で伝書も手にし、現物にも目の前で悩まされ続けてきた結果が、中国産の倭刀術の歴史であると言えます。
その製作者として戚継光公と並ぶもう一人の偉人が、程宗猷です。
彼は元々少林の僧で、下山後にも各派の武術を訪ね歩いたという、正統派の武術家です。
戚継光が軍閥系の武術家であるとは対照的な、大乗武術家と言ってもいいでしょう。
その彼が私淑した老師に、劉雲峰という人が居ました。
この人は倭寇の直伝の倭刀術を体得していたと言いますが、要は当人が倭寇だったという説が有力です。
つまり、源信斎の系列だった可能性が高い。
彼は学んだ倭刀術を「単刀法選」という書簡にまとめて現代にまで残しています。
この中で「日本刀は左右への変化が予測できず、槍をもってしても勝てない」と書いています。戚継光公と同じ見解です。
その他、当時のいくつかの記録を見ても、みな倭寇が飛び込んでくると槍では勝てない。ということが繰り返し書かれています。これは中国だけではなく、朝鮮でも接近戦を禁じる軍令が出たと言います。
そのような思想の元で組まれた倭刀術の仮想敵は、槍だそうです。
つまり、主客転倒、なぜ自分たちが短兵の王である槍が通じないのか、という立場からリヴートしているのです。
その倭刀の実態がこれです。https://www.youtube.com/watch?v=CJkIt-6FNLwなにこれ長い。
どうやら、長ければもっと強いだろうと言う意図があったのか、かなり伸ばしてしまったようなのです。まるで佐々木小次郎の物干しざお。
ただ、こうなると前に書いたような接弦してのたたき合いの時にもこれを使えるので重宝なサイズだったのかもしれません。
おそらく、相手の槍を切り落とすようにも多く用いたのでしょう。
今回お招きする施安哲老師が紹介してくださるのは、この程宗猷の系統のものです。