私たちの一方の武術であるアルニスには剣士の心があり、それを身につけてゆくことで理知的なエレガンシアが宿ってゆくのではないか、ということを書きました。
では、かたやの蔡李佛拳はどうでしょう? というのが今回のお題です。
アルニスがチェスであるなら、蔡李佛はやはり禅なのです。
これまでも何度となく繰り返してきたお話になってしまうのですが、やはりそうなのです。
これは蔡李佛のテーマであるというよりは、そもそもの禅的な世界の一表現として拳術がある、というのがより正しいことでしょう。
お茶がそうであり、お香がそうであり、禅画がそうであるように、少林拳というのはやはり動く瞑想、禅の一形態なのです。
そのために、練習における師弟間の会話は実はすべて禅問答となります。
昔、私が稽古していると横で見ていた師に言われたことがあります。
「なぜそんなに強く打つ? 殺したいのか?」
考えてみると、これはとても謎めいた質問です。
単に「力を入れるな」という注意のレトリック的な言い方と取ることも可能ですが、禅問答の世界ではそれ以上の意味を求めることが可能です。
自分の中にある闘争性や、自分で気が付いていない管理の出来ていない肉体の動作について考える機会を与えられたと考えることができます。
この視点で観るなら、例えばアルニスでは生徒は師と打ち合いをし、打ち込まれて隙を指示されたり転ばされてバランスの弱さを指摘されてりしてゆくのですが、中国武術では「そもそもなぜ戦うのだ?」と言うところに目を向けさせられます。
この答えが見いだせないまま表層の技術だけに戦闘の技術だけを追い求めてゆくと、その人間は迷路に迷い込むことになります。
自分の心とそこに映る世の中と言う迷路です。
これを魔境と言います。
感じられる世界は自分の心に映った物だという、そこからでないと、中国武術の本当のことは見えてきません。
なぜ拳足を打つのか? なぜ肉体の内側の力を求めるのか。
そもそも肉体とはなんなのか。
肉体を離れた自分とはなんなのか。
すべてがそこにつながってゆきます。
私自身が目を開く切っ掛けとなったのは、拳を打つ稽古をしているときに師から言われた「もっと遠くに想いを届けるんだ」という言葉でした。
内側にこもって力を鬱屈させるために拳を突いているのではありません。
自分自身の未来に向かって心を伸ばすために行っているのです。
そしてすべては、迷妄を振り払い、自分の心を自由にするために行っています。
それが分かったとき、私は中国武術の本当のことを理解できたように思いました。
もしただの戦闘術だととらえるなら、それこそ西洋の人たちが思うように、拳銃やナイフで一発でしょう。
求めるのはそのようなことではない。
マチズムからくる自己満足でもない。
コンプレックスからくる不安へのストレス反応でもない。
それらすべてを包括しつつ越えたところにある、自分自身を見直して常にもっとも自由なところに調整しようと言う行為です。
もっとも単純に言うなら、リラクゼーションと表現してしまってもいいかもしれない。
肉体を鍛えるのも、ストレスを解消するのも、コンプレックスを補うのも、虚栄心からステータスを得ようとするのも、せんじ詰めれば自分の内側にある問題に取り組んで心地よく日々を暮らせる自分になるということなのではないでしょうか?
本物の少林武術を学ぶと言うのは、そのようなことであるはずだと思っています。
だからいつも言うように、これはライフ・スタイルとしてのマーシャル・アーツなのです。