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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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奪うことも力むことも要らない

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 心と向き合う時間として、武術の稽古がある、ということを書いてきました。
 そういう意味では、自分には才能が無くて良かったと思うことが最近とみに増えてきました。
 もし才能があってなんでもすぐに出来てしまったら、その分、自分と向き合う時間が少なくなっていたでしょうから。
 もしかしたらそれで浮いた時間を、お酒を飲みに行ったり何かつまらないことをするのに使って心をかえって淀ませてしまっていたかもしれません。
 長い時間を我知らずに瞑想として過ごせてきたからこそ、いまの私があるのは間違いありません。
 そのために、武術をただの昔の人の技の練習としてだけでなく、より普遍的な価値のあるものとしてレクチャーできるいまに至っています。
 多くの人には、その理解のために一段階の壁を乗り越える必要があるようです。
 タオと禅では、執着を捨てること、足るを知ることが重視されますが、まず物を学びにくる現代人の意向とこれは逆行しがちです。
 貪欲に物事を獲得しようと言う向上心と、心をぼんやりさせて安静を得ると言うことにはジレンマがあります。
 特に、これまでに現代社会で物質的に成功してきた大人の皆さんや、現代格闘技を学んできている方々には。
 これは私のヴィジュアルの問題もあるのかもしれない。
 ウルヴァリンみたいなひげを生やして触るだけで100キロくらいの人を次々飛ばしてしまう人間を目の前にしてリラックスしろという方が無理難題なのかも。
 それまでの人生の経験が、どうしても心身に身構えることを誘発してしまう。
 でもそれが、先に書いた乗り越えるべき壁なのです。
 その壁を、経験と言います。
 格闘技の練習、武道の稽古、そういう時間だと思うと、どうしてもそれまでに積み重ねてきた体育会系的知識がモードを作ってしまう。
 押忍押忍と分かってないのに威勢だけはよく、文字通り押して忍んでしまう。
 そういう力みがすべて無駄になってしまう。
 日本では喝で有名な臨済宗の影響なのか、禅も同様な厳しい修行だとみなすことが多いようですが、海外ではむしろリラクゼーションとして知られている場合もあります。
 力みかえって緊張してかしこまるのとは逆です。
 私自身が寛いでやってくださいと言っても、中々自我がそれを許さない。
 また、寛ぐということと無礼勝手であることを混同する人も少なくありません。
 人生において、本当に平安であるという経験がおそらく少ないのでしょう。強いてわがままにエゴを振り回すことが自分の安らぎだと誤解して大人になっている人は多いです。これは大変に悲しいことです。
 安らかであること、穏やかであることは、誰かかから何かを獲得することなのだという認識が、現代社会での生活の経験で刷り込まれているのです。
 そうではありません。
 そういったわがままこそが苦しみの元です。
 それを作り出すエゴから離れて、身体が気持ちよいと感じる状態に慣れてゆくことが目的です。
 そうすることで、心の力を抜いても大丈夫なんだ、誰かから何かを奪おうとしたり、何かを強く主張しようとしなくても気持ちよくいられるんだ、という経験を積んでゆきます。
 その経験が人生に対する信頼となり、信頼は安心となります。
 そして、経験をたくさん積むには時間が長い方が物理的に良いのです。
 そのために安心な時間を送ることを行と言っています。
 しかし、心が強張っている現代人にはとてもこれが難しいのです。
 危険だ、気をつけろ、油断するな、そういう経験則がどうしても肉を力ませ、骨をゆがませる。
 そうやっていつも身構えてしまうのです。
 身構えていないと強く居られない。という痛い目に合わされ続けて仕込まれてきた経験のためです。
 だからこそ、ある程度安全の確保された稽古場での稽古時間という空間の中でリラックスをする訓練をしてゆく。
 そして、寛いでいたほうが力を出せると言う経験を積むことで、緊張→強い、弛緩→弱いという刷り込みを書き直してゆく。
 これをしてゆくには過程でかなり強い意志の力が必要だとは思います。
 しかし、これを乗り越えたなら、稽古時間の外でも寛いで、かつ強くいられるようになります。
 危急の時ほど心身を柔らかくたもとうとする習慣が作れます。
 現代人は本当に、あるがままに過ごすのが苦手になっています。
 そのためか、やたらに他者に強面の対応をしてプレッシャーをかけていないと安心出来ない人や、内面のトラウマや不満を吐き続けていないと自己の領域を確保できないのではないかという不安に駆られている人が非常に多い。
 歳を取ると命の力が弱くなるためか、老人になるとこのような傾向はより強まるようです。
 もちろん我々はそのようなお年寄りと接してきて、それが強さではなく弱さであり、けっして本人のためになっていないことを理解できます。
 しかし、本質的には私たちの社会そのものが全体にそのような傾向に充ちているのです。
 近代社会の先進国であるアメリカではそのためか、心理学においては演技性人格と呼ばれるパーソナリティが良い物とされています。
 上に書いたようなテリトリーのマーキング行為をせずに、演技を持ってクッションを作って人間関係を円滑に出来、自分の心への負担も減らせるということでしょう。
 マーキング行為は基本、環境への適応に対する不安から来ているのではないでしょうか?
 完全武装しているというのは確かに強固なことですが、些細なことに逐一武装するのは果たして本当に強さなのではないでしょうか?
 丸腰の強さというのもあるのでは?
 陰陽思想では物事を分割して相対化して見ます。
 武装と言う強さを振りかざす弱さを露呈したら、したたかな物には上手く利用されてしまうのではないでしょうか。
 マーキング行為として私情を垂れ流しにしたら、性質の悪いインチキカウンセラーや悪徳宗教家に良いカモにされるだけではないかと感じます。
 あれだけ強面の社長が、と言われるような人がしょーもない詐欺にコロッとかかるケースをよく目にすることかと思います。
 強さを振り回すという、大上段に構えた状態は脇から観れば隙だらけであったりするのです。
 私などは優しくない人間なので、そのような人と接すると「そういう自分の心の問題は家の中で自分で片づけてから社会に出てきてくれないかな。いまは仕事を片付けに来てるんで」と思ってしまうことが多々あります。
 忙しい他人様が、あまたいる付き合いのある人の内の一人である自分の心の内側だけの他の何にも関係ないことになど、関心を持ったり解決しようと向き合ってくれることなど普通はありません。
 そのようなことへの対策として北米のカウンセリング界では演技性人格が洗練されたふるまいとしてよしとされてきたのでしょうし、日本社会では飲みにケーションなどという泥臭い手法でそれぞれの弱さを出し合って安全を確認し合うという行為が行われてきたのでしょう。
 日本人というのは、お互い弱いよな、と言って低いところで安心しあいたがる風土の社会を気付いてきました。そこから高いところや良い物への抵抗が生まれます。
 いずれにしても、文明病です。
 文明社会での軋轢への処世術として生まれてきた物でしょう。
 陰陽思想で言うなら、文明社会だけが世界のすべてではない。
 大自然の領域もこの地球上には多々ある。人間の存在の中もまた同様です。
 自分の中の自然の部分に意識を向けて、もう一度自然の感覚を取り戻してゆくことが、我々のタオと禅の武術、瞑想としての武術、ライフスタイルとしてのマーシャル・アーツの本質となります。
 そのために、一つ一つの動作に現れる自分の心について、質疑応答と改善が求められます。
 誰にも顧みられないのが当然の、たくさんいる人類のうちの一人にすぎない自分の心と言うものに対して、自分自身と練習仲間が本気で向かい合って変化に取り組んでゆくという時間です。
 経験の蓄積がある以上、そのことに抵抗があるのは当然です。しかしみなさん、そこに囚われず、ぜひ力を抜いて、思い切って自由になると言う訓練をしにいらしてください。
 気負いも根性も要りません。ただ、リラックスしてそれが誰にも傷つけられることではないのだと言うことを覚えてゆくだけのことです。

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