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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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現代武道の有用性について

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 先に挙げた勁と弓に関する一連の流れは、私にとって非常に重大な発見でした。
 しかし、もちろん一人で見つけられた仮説ではありません。
 たくさんの人とのディスカッションあっての結果です。
 私は普段、あまり人と接することが多くないのですが(なにせ本分は隠者を自称しています)、ごく一部の友達との厳選されたお付き合いが良い結果をもたらしてくれました。
 きっかけとなったのは、私が現代武道の思想的な有用性はもう尽きたのではないか、と言い出したことです。
 まとめます。
 日本の武術には、大きく分けて三つの時期があるというのが私の見立てです。
 まず第零期が、室町時代までの実際の生活上の兵法であった時代です。これはだいぶ長くなってしまいますがお許しください。
 次が室町末からの流儀武術が生まれた江戸初期にかけて。
 最後が明治から戦後までです。
 これは技法的な分類も歴史的な分類もしていなくて、概念でくくっています。
 零期は本当にただの生活手段。まだ術だなんだという概念ができる前です。
 一期で初めてこれが術という考え方が出てきて、武者の戦争での技や市井の喧嘩殺法との区別が出てきます。
 二期で今度は江戸期に隆盛と爛熟を迎えた武術の大幅な方向転換が行われます。これが現代武道です。
 では、なぜどのように方向転換が行われたのかを書いてみたいと思います。
 まず、第一期において、武術という物が特別な行為として棚上げされました。
 支配階層の武士階級という物が確立され、誰でもが武器をもって闘争をしていたそれまでの時代は終わりとなって秀吉による刀狩りが行われます。
 天下を引き継いだ家康によって階級社会はさらに厳密となって完全封建社会が運営されるようになり、刀は階級証明としての物に設定されて二尺三寸の定寸が決まりとなりました。
 刀以外の武器に関しては、戦国時代の主戦力であった鉄砲、および弾丸の材料となる鉄の確保にも制限がかかります。
 また、同じく主力平気であった槍も持ち込み場所が厳しく制限されるようになり、弓に至っては市中への持ち込みがご法度となります。
 このようにしてそれまでの兵器がどんどん取り締まられてゆきます。
 また、新規発明あいならんとのお触れも出て、これを破れば実刑を受けました。
 一方で尚武の気風は推奨されて、結果武士階級は許された規制下の武器の活用法の工夫に専念することになってゆきました。
 このように、あくまで国体の護持のためだけに武術が司法によって管理されていたのが第一期の特徴です。
 歴史上の考証では、いわゆる忍者という物は居なかったというのが定説のようですが、このように厳しい武家諸法度を考えれば当然でしょう。
 あらゆることが法に触れています。
 室町末から江戸期の法の厳しさはなまなかではありません。
 実際、日本でももっとも有名な武術の一族であり、二代秀忠の時代には将軍家指南役どころか幕府全体の大目付の家ににまで出世した柳生家でさえ、一時は領地没収をされて浪人となる憂き目を見ています。
 国の根本を支えるのが、石高と武力と法の行使力であったのですから、そこに直結している武術というのは国の公的な所有物となります。
 この、世界でも極めてまれであろう環境こそが日本を武の国であると世界に知らしめた一員であると思います。
 このような特殊環境が、二期で一気に変わります。
 倒幕という言葉があるように、徳川武家社会そのものを崩壊させた革命運動によって、それまでの国体が一編します。
 時代小説などのキャラクター像として幕末を知っている人はとても多いと思うのですが、これを成し遂げた幕末の志士らの意図は、列強からくる近代化の波への対策であったことを見失ってはいけません。
 隣国である大国のはずだった清がみるみる列強に食いつぶされていることに危機感を抱いていたからこそ、それに対抗しうる新たな国体を創立しようとしたのが明治の御一新です。
 倒幕、佐幕という対立は、この国体の一新に当たって、武家社会をもって近代化を行うのか、まったく別の体制で近代化を行うかという意見の分かれでした。
 このようにして生まれた近代国家日本帝国において、それまでは草莽の人々であった人たちが司法、行政権を握りました。
 すぐそこまで迫ってきている欧米列強に対して、どのように新国家として対等に肩を並べるかという本来の作業に専念を開始します。
 武術に関しては、それまでの専業階級であった(実際には幕末には農民も竹刀剣術はしていた)旧士族が警察官となり、それ以外の戦力が軍に入隊となりました。
 ここで、平民が対外的に活用しうる新時代の武が求められます。
 それにこたえる形で設定されたのが現代武道という物です。
 これを理解するためには、まず近代化というのはそもそも何かということを整理したほうがよいでしょう。
 発端は産業革命にあると考えて良いと思います。
 産業化を社会の中心として、環境を支配してゆこうという思想です。
 この、産業のために環境を支配するというところがミソです。
 つまり、植民委政策が重要な要素として内包されているわけです。
 このために、武力と生産力は近代化の基本的な素養となりました。
 ドイツの鉄血政策などはそれを代表する方針でしょう。
 このようなものを、富国強兵政策と言います。
 戦後までの日本の家では、長男が家業を継いで次男三男は兵隊となるというのが定番だったと言います。
 そうして農業を資本として産業と農業、産業用地を軍力にて獲得してゆくというのが当時の日本の青写真でした。
 そのためにはどうしても中国の広大な領地が必要だったという話を聞いたことがあります。
 このころの、もう一人のヒーローが福沢諭吉翁です。
「天は人の上に人を作らず、人の下に人を作らず」階級社会を反面教師として国民全てが国体のために機能するために、学問がススメられました。末は博士か大臣か、という出世価値観が生まれて、博士にも大臣にもならない人は生産力か軍事力として国益に付与することとなっていました。
 このような状況で作られた現代武道という物を一言で言うならば、それはバンカラに尽きるのではないでしょうか。
 バンカラというのは、明治に生まれた言葉で、正調の西洋化である紳士文化(ハイカラ)に対する物として生まれたそうです。
 蛮風の蛮とハイカラを足してバンカラとなったそうで、ハイカラのルーツにある騎士道に足して、武士道を模倣する風潮があったと言われています。 
 そもそもがこの武士道という物、新渡戸稲造が日本の近代化において西欧のキリスト教文化に対抗すべき思想として、キリスト教の考え方を土台に日本の武士の文化を再解釈して創立したもので、そもがバンカラはかなり近代的思想です。
 そして最大のポイントが、このバンカラが末は博士か大臣を目指す高等教育を受けている学生によって興ったことです。
 つまり、幕末の志士の姿を丸々なぞる形で成立していたであろうことが浮き彫りとなります。
 このバンカラ諸氏こそが大学を中心に普及をされていた現代武道の実践層であり、またのちに生まれる体育会系という物の大本です。
 中国の文化大革命では、封建社会的な物を一切排して近代化を推し進めるという思想のもとで、真正な武術の弾圧が行われました。
 その結果、多くの武術家が国民党に賛同して、台湾に亡命しました。
 同様に日本でも本物の武術の正統が受け継がれることを差し押さえるようにして、大学のセンパイからコーハイへの、初めて二、三年の素人先生による指導が盛んとなりました。
 もちろん教えられるのは、そのレベルでも可能な程度の行為だけに限定されます。
 これは、産業化というものがこのようなものであるからです。明治の人は江戸期前の様式のことを旧弊と言って忌避しました。彼らの時代における正しい傾向とは近代的であることであり、近代的ということは産業的ということであり、それはつまり誰にでも短期間で習得ができる物を求めるということでした。
 近代社会を形成する人員の形成のための教育として設定された現代武道が同じコンセプトで組まれたのは当然のことです。
 こうして専門家の家の者のために存在していて熟練を要するファミリー・アートから最大公約的な素人の養成に役立つ現代武道へとイニシアチブは移ったのです。
 柔道を生み出した嘉納治五郎その人が存命中の内から「こんなものは私の生み出した柔道ではない」という言葉が出ていることからも、この素人武芸の野火のような広まりを察することができます。
 自由、平等、大衆化という当時の気風が、このようにして伝統武術を抑圧する現代武道の養分となったのです。
 もちろん、国政としてこの方針は卓見でした。
 現代武道、バンカラ、体育会系の思想は国体を支えるものとして実に有効に機能してきました。
 押忍、根性、欲しがりません勝つまでは。末は博士か大臣となった為政者にとって、この思想が浸透したことがどれだけ都合がよかったことでしょう。
 新渡戸が意図したとおり、列強諸国に対抗しうる思想として、近代武士道は見事に作用したのです。
 しかし、その人的資本も物質的な資本の欠落によって失速し、政策のわきの甘さを決定打として敗戦が訪れました。
 ですが、その後の復興においてこそ、この体育会系がまさに真価を発揮したのではないでしょうか。
 戦後、農本社会は色を変えて、旧財閥を頂点にした商業社会となったこの国では、ほとんどの成人男子が勤め人となるのが当然となりました。
 植民地を必須とする農本ではなく、労働力、すなわち人間そのものを資本とするということを戦中に学んでいたのです。
 人こそが資本だと戦国時代に言っていたのは武田氏でした。土地が悪く作物が捕れないかの領土では、人を資本とするほかなく、また海外への奴隷貿易でも知られていました。
 戦後日本の復興に必要だったのは、その奴隷労働を当然とする国風です。
 国のリードでそれを推奨する覚せい剤が発売されており、また公害問題も多発しました。
 企業はこぞって体育会系部活の出身者と高学歴者を人材として求めました。
 明治のバンカラそのものの人々です。
 百年を経て、まさにバンカラの思想は見事に国の隅々にまで浸透しきったのです。
 戦後の相撲、プロレスブームは、決して経済復興とシンクロしていなかったとは言えないでしょう。
 野球があれほど人気があったのも国風に基づくものでしょう。
 このような風潮は、80年代のバブル期をピークとして続きました。あの頃も若貴ブームで相撲人気でした。
 景気に陰りが見え始めたころ、体育の世界にも変化が見え始めました。
 それまでは坊主頭かスポーツ刈りに成金じみた金ネックレスというまさしくバンカラな印象の野球選手の人気を推し出して、サッカーに注目が集まり始めました。
 長髪、軟派を前面に打ち出したサッカー選手たちには、野球選手には見られなかったコスモポリタンのにおいが感じられました。
 バブルというピークまでは、武道、格技と言えば角刈りか坊主、体育会系という印象だったのが、タトゥや染髪というヴィジュアル・イメージにシフトして行ったのもこのあたりを曲がり角に迎えてだと思います。
 これはもはや、体育会系バンカラ思想という物の有用性に陰りが見えてきたことそのものだったのではないでしょうか。
 体育会系のウチ社会から、単独で世界に向かう人々に世間の評価が移っていき始めました。
 これこそが、日本社会が本当に近代化を果たし始めたころの風景だったのではないかと思います。
 武家政権から近代化の間のクッションとして機能していたのが、新渡戸武士道やバンカラ、体育会系だったのでしょう。
 それからさらに時代を経て、現代ではブラック企業やハラスメントに対してNOを唱えることが堂々と推奨されるようになり始めています。
 これこそが、私が現代武道の思想的な有用期限が切れたのではないか、と言った意図です。
 ただ、語りのその中で剣道の一部高段者と弓道だけは例外の可能性がある、と言いました。
 剣道は勝負第一主義のスポーツ化を未だに否定しており、弓道も同じく的に矢を当てるスポーツではありません。
 特に弓道でいうなら、精神性を第一として置いて、禅との親近性も極めて高いものです。
 このような話をしていたところから、弓と勁との歴史的な相関関係が見えてきました。
 思想と実技はやはり車の両輪です。どちらもできないと少なくとも専門家とはいいがたい。
 そしてこのようなことを人と語らうことで因果が形を結んで、大きな実りとなることがあるものだと強く感じたものです。  

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