ある俳優さんが、少林寺で修行するという番組を鑑賞。見ててハラハラする。
子供のころからカンフー映画にあこがれて、実家は空手道場だったというこの俳優さん、入山して指定された青年僧に遭遇して名乗り、相手が合掌して敬礼をするも膝をつくことはおろか頭も下げません。
「おはいりなさい」と拱手をされてると、握手だと勘違いして手を握ろうとしてしまいます。
「少林拳の経験は?」と訊かれて「子供のころ空手を」と答えてしまう。
「やってみなさい」と言われて、型を見せようとしてしまいます。
こんなに恥ずかしいことはありません。
開始直後、当然もういいと言われます。
どこまでが演出なのかはわからないけれど、本当にまるでダメだし、現代日本人がやりそうなことをきれいに全部やっていてて鋭い作りです。
何もできません、何も学んでいません、ということがよくわかります。
私も結果的にこういう形で人を見ることになるケースが多い。
武術をやっています、中国拳法をやっています、という人の、ほとんどがこの俳優さんと同じことをします。
しかしこういう人は、何も本当に学んではいなません。自分が師だと思っている先生から何も習っていないのです。
本当に身内として認められた弟子は、身内としての礼の仕方をきちんと教育されます。
礼式はその世界の内側の人間であるという符牒でもあります。
こういう対面できちんとした礼や作法が出来ないというのは恥ずかしいことだというだけでなく、門外のお客さんだという証明になります。
やれと言われて本当にやりだしちゃうとか顔から火が出てしまいそうです。ここは三回までは辞退しなければならない。
この手の人は非常に多い。
やれと言われてないのに、私の前で手を披露するという人さえ多いです。
可愛らしいと言ってもいいくらいに素人の証です。「何も知らない素人です」と後光のネオンサインが輝いています。
おそらくそういう見分けをつけるために、武林のしきたりという物が作られているのでしょう。
本物を学んだ人はそういうことはしません。
フィリピンで信頼をしてもらえたのも、この辺りが慎重であったからだと思われます。
だから私は敬意を抱いている武友がどういう手をするのか、ほとんど見たことがありません。私も特に必要あって請われない限り別段見せないし、自分の手の内の話さえしない。
そういうことをしたがるのは素人だけです。
ネオンサインの信頼性は大した物で、たいてい輝いている人に聞けばきちんとした環境で学んでいません。
別にだからと言ってとくにどうということもありません。
ただ、そういう場所にいる人だ、と分類して終わりです。
くだんの俳優さんは、寺内の子供たちが練習する場所に案内されました。
一人の子供と話をすると、彼は「将来は僧になりたい」と答えます。
開始十三分でナレーションが言います。「なぜ子供の練習を見せられたか分かった。彼らは人生のすべてをかけて禅と武術を学んでいる。ここには夢やあこがれを持ち込んではダメなんだ」
まず迷妄を切り捨てる、よくできた構成の番組です。
そういう夢やあこがれと本物の区別がつかなかったごっこ遊びの連中が、本物の外堀に置かれて特に追い出されはしなかったというだけで、勘違いをしてしまうことがあります。
この13分のラインを越えられないまま年を重ねて、いつのまにかただのごっこ遊びをしていたおじさん、おじいさんが先生面をしだしてしまう。
本物を求める人は騙されてはいけません。ごっこ遊びがしたい人にはそれでいいですが、そうでないならただの迷い道となってしまいます。
もちろん、迷い道から得るものもあるのでしょうが。