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大倭寇の話 1・呂宋と東都

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さて、来月に海賊武術研究祭を控えまして、ここから改めて倭寇、それも倭刀術と直に関連する後期倭寇の歴史を追いかけてゆきたいと思います。

 この後期倭寇、またの名を大倭寇ともいい、以前の記事でも触れた海禁令に反抗した一大倭寇の攻撃を指しています。

 今回、苗刀術とフィリピンのアルニスの合同WSを日本で行うという企画のため、そのあたりから触れてゆきたいと思います。

 その前に、この切り口のインスパイアを与えてくれた、戴氏心意門の奥本聡先生に感謝をいたしたいと思います。

 彼が見せてくれた歴代中華帝国の興亡を可視化した動画には、中東から南洋までが含まれていました。

 中華帝国にとっては、楊貴妃とライチの故事があるとおり、南もまた自分たちの下位の小国の領域となっております。

 特にフィリピンの立ち位置というのはその色合いが強い。

 もともと、フィリピンの北部をルソン島と言います。台湾のちょっと下のあたりですね。南端には首都のマニラがあります。私がアルニスの修行をしたあたりです。

 このルソン、感じでは呂宋と書きます。フィリピンと取引をしていた呂宋助左衛門が有名ですね。

 このルソン、なぜ呂宋というかというと、南宋の時代に北方から騎馬民族がの金帝国が攻めてきて、落ち延びた宋の人々が移民した場所だからというのですね。

 南宋の滅亡が1279年ですから、13世紀のことです。スペインの入植が1565年だからそれよりずっと早い。

 呂宋王国として中華帝国の一部となり、東都(トンド)という首都がおかれました。

 これ、のちのスペインの駐留地で世界遺産になっているイントラムロスの川を挟んだところにあります。

 いまでも中華街があり、私も行ったことがある場所です。

 この辺りに博物館があり、ラプラプの巨象が立っています。

 マニラのエスクリマの中心地であるルネタ公演はここにあります。

 エスクリマ部隊でゲリラ戦をしていたボニフォシオの出身地もここです。

 さて、南宋を滅ぼした騎馬民族の金帝国はその後、代替わりを繰り返してモンゴル帝国を築きます。

 ご存知の通り、彼らはヨーロッパまで進出し、ユーラシア大陸を席巻します。

 しかし、15世紀になってこれが衰退してくると、大陸の半ばの中東からオスマン帝国の力が強大化してきます。

 これによってヨーロッパは海域を制限されて、あらたなる海洋ルートを開発しなければならなくなりました。

 とくにこのオスマン帝国の抑圧を受けていたのが海に面したスペインとポルトガルです。

 両国は協力してオスマン帝国を追い出してゆきます。

 そのまま北アフリカにまで追撃をしてゆき、そこから新しい航海ルートも模索されてゆきます。

 こうして大航海時代が始まりました。

 初期のころは、ポルトガルが特に先行していまして、中国にたどり着いたのもこちらが先でした。

 1517年、当時の中国を納めていた明国に船団が訪れます。

 しかし、明国側は中華思想で対等外交という概念がなく、文化の壁に突き当たります。

 また、中華帝国の属国であったマラッカ(マレー)から、明に至る前にポルトガルが狼藉を働いていたことを訴えられたりもして、明国はこれを船団を持って迎撃します。

 はるばる旅をしてきたポルトガル艦隊は撃退されます。

 ちなみにこの時の撃退された船から、当時のポルトガルの大砲が回収されて明で使われるようになるのですが、これが仏郎機(フランキ)砲です。

 明にとってみれば白人種はみんなフランク人だったということだそうです。 

 上のほうでそんなことが起きている一方、先にも述べたように1565年にフィリピンはスペインの領土となってしまいます。

 ポルトガルがマラッカにしたように、呂宋王国を攻撃していればまた明の攻撃があったかもしれないのですが、スペイン側はこの地での中国人の貿易に対して好意的だったそうです。

 中国の商人たちは3、40隻のジャンク船で訪れてはメキシコペソで支払いを受け取っていたとのことです。

 しかしこの中国の海商船団こそ、実は海賊だったのです。


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