まず、明国における海賊の定義を明確にしなければなりません。
当時、マラッカに対する対応がそうだったように、中華思想に基づいて多くの国が中国の属国であるというキングダム宇宙がアジアには形成されていました。
そのような国を朝責国というのですが、印璽を受けて中国に貢物をするのです。
すると、中国からは倍返しの返礼が来ます。
正直ぼろもうけだし、また外敵が来た時も言いつければポルトガルにそうしたように追い払ってくれます。
そのため、多くの国が形式上そのような立場に入っていたのです。もちろん日本もそのうちの一つでした。
ただ、その代わりにあった制限の一つが海洋権の問題でした。
地面につながっていない海は中国の管轄とされており、国交のある朝責国の正使でないと商業が行えないのです。
そのために、明国の大盤振る舞いのしわ寄せがもろに出ることとなりました。
要するに、あんまりしょっちゅう貢物をされると明としては赤字がかさんで大変なので、通行を規制してこれないようにしていたのです。
この、正使しか海上貿易が不可能だという仕組みを、日本では勘合貿易と言います。
日本国の国王として明に認められていたのは室町将軍であり、勘合の発行は幕府によってのみ許されていました。
そのような制限の中から許可を得ていない貿易商が、海賊と呼ばれた人々です。
フィリピンに訪れていた貿易商の中にも、そのような海賊が多々いたもののようです。
実際には取り締まりは緩く、ザル法であった勘合貿易ですが、それでも法をすり抜けているという形のため、どうしても海賊たちはやることが荒っぽくなります。
たいていの時は見て見ぬふりをされていても、突然取り締まりキャンペーンの最中に出くわせば明の船団に襲撃を受けるためです。
1574年、そのような海賊団の一つが、東都に訪れました。
大物首領の林鳳の率いる大艦隊です。
戦闘用のジャンク船の数は62隻、船員と兵士が2000人づつ、女衆も1500人いたというからこれは当時よくいた「船上を家とする者」と呼ばれていた移動民族だとみてもよいでしょう。
このような海上生活者は今に至るまで存在しています。
この旅団の副官に、シオコという日本人が居たと言います。
このシオコが600人の兵士を率いてマニラを襲撃し、現地の将軍を殺害します。
崩れかかったスペイン軍は、現地のフィリピン人の助けを得て迎撃に転じ、シオコの部隊を押し返すことに成功しました。
しかし海賊部隊はひるむことなく第二次攻撃を仕掛けます。
そのころには通報を受けたスペイン軍の増税が別の地域から到着してこれを迎え撃ちます。
海賊たちの火力は強く、マニラの町は炎上したとの記録があります。
フィリピン人とスペイン人の混成部隊は協力して戦い、シオコを打倒しました。林鳳は撤退を始めますが、結局は包囲をされて兵糧攻めに会います。
ここで海賊たちは夜陰に乗じて船から離脱して逃走します。
恐ろしいことに、林鳳は中国に戻って再度手勢を集めて軍団を再結成を始めます。
しかし、もともと彼は明で皇帝から国賊として追われていたためにフィリピンに降ってきた身でした。福建の総統が力の弱った彼を見逃さず、船団を攻撃しました。
恐るべき生命力を持ったこの大首領はそのままタイに逃亡します。
しかしタイももちろん中華帝国の一部、彼の入国を受け入れません。
林鳳はその後も周りの小国を転々と回りますがどこからも追い出されてそのまま行方が知れなくなってしまったそうです。
これが、当時の海賊を代表する大物の一人です。
なんというか、すごい話です。
この中のマニラでの襲撃で用いられたのが、中国武術であり、防衛側がエスグリマを用いていたわけです。フィリピン人を自衛団として訓練していたのが活用された歴史上のケースです。