かくして東シナ海の大ボスとなった王直のもとには、倭寇のみならず陸の人々も膝をつきました。
かつて朱紈が率いてきたものの軍の解体で流浪していた兵士の半数までもが傘下に加わり、地元の人々も彼を土地の親分として立て、さらには現役の官軍までもが彼によしみを通じたと言います。
それらの官軍の武将の中に、王直に紅袍玉帯を贈るものがあったといいます。
これは王者の衣装です。
王直はこれを身にまとい、浄海王と僭して自ら戴冠の儀を行ったという話があります。
この海域を収め、日本との流通を一手に握り、彼ら倭寇の縄張りをひとつの国とみなして独立を宣言したということでしょう。
おそらく、この、地面にとらわれていない自由海域の独立というのは昔から海上生活を送っている一帯の人々のある種の悲願だったのではないかと思われます。
勢いがあり、内陸の機微に通じた英雄の登場は、人々の願いをかなえる絶好の機会だったのでしょう。
しかし、それが王直の首を絞めました。
よき王であろうとしたのでしょう。
日本に向かう船があれば薪を提供してやり、国まで守護して送ってあげるほどでした。
平戸に屋敷を構え、地元で五峰先生として知られるようになったのもこのころのようです。
これによって平戸港は海外貿易がもっとも盛んな港になったといいます。
しかし、同時に彼の配下のうちにまだ略奪を行うものがあったり、あるいは彼の手の薄い熊本方面のルートでは略奪が行われていたのも事実でした。
王直も頑張ってそれらを取り締まったりはしていたのですが、しかしやはりここで陰陽の法則が働くのです。
彼の働きが大きくなり、交易が活発になるほど、陰の部分としてその隙間を縫って財物を略奪しようという小さな勢力もまたうごめくのでした。
しかも、その責任は仮にも王を名乗ってしまった王直のものだと外部はみなします。
浙江省に、再び倭寇討伐の軍が配備されることになりました。
この時に呼び寄せられた一人が、ベトナム方面の戦線で活躍した実績のある武将、兪大猶でした。
この人は文武両道の英雄で、正気堂と号していくつかの書物を残しているくらいの人物です。
彼が配備されてからの倭寇の襲撃がありましたが、ここで軍が出るなり、賊は逃亡してしまいます。
もともと王直の手を逃れて活動している小規模で機動力のある倭寇たちです。すぐに捕まるものではありません。
この時代のこれら小規模倭寇のゲリラ襲撃は、上海にまで及んでいたというからかなり広範囲かつ頻繁に行われていたのでしょう。
官軍は王直にもこれらの取り締まりを依頼していたのですが、一向に襲撃は収まりません。
そのために官憲の側はこれを王直の責任どころか、むしろ指示によるものなのではないかと思ってさえ思ってしまいます。
王直討つべしの声が強くなってきます。
兪将軍は王直が島に滞在している時を狙って襲撃をかけます。
準備万端の討伐軍は挟み撃ちをかけ、王直自身も艦隊を率いて対峙しますが、兪将軍の艦隊はこれを次々と撃沈してゆきます。
このとき、王直の部下は数百名単位で船から海に叩き落されたと言います。
王直本人の旗艦も詰め寄られたのですが、とうとう一巻の終わりというときに信じられないことが起きます。
なんと、神風が吹いたのです。
倭寇のそもそもの原因になった、元寇の時と同じく、突然突風が吹き荒れて船の操作がままならなくなるのです。
こうなれば海戦どころではありません。
官軍側は激突して沈没するのを避けるために撤退をします。
方や王直の側は少数になった利をものとしてまさに尻に帆をかけて逃亡します。
この時の、兪将軍のエピソードに面白いものがあります。
暴風が吹き荒れた時には、当時の軍艦ではいけにえを海に捧げて回復を祈るのだそうです。そのための動物たちをどうやら船にあらかじめ用意していたようです。
挟み撃ちを受け持っていた一方の将軍は、数十頭単位で家畜をいけにえに捧げて祈祷をしたらしいのですが、兪将軍のほうは牛豚羊を各一頭だったそうです。
なんでそんな少ないんだと指摘されると、兪将軍は「私の家は貧しいのだ」と真顔で答えたのだそうです。
兵士たちは絶望して泣き叫んだと言います。
ますます海が荒れ狂い、船が揺られるなか、将軍自身は「快適だな」とうそぶいていたそうです。
相棒の将軍に突っ込まれると「お前と一緒に戦ってこうして海に沈むのだから、軍人としてこんな良いことはない」と言ったそうです。
やはり一代の英雄の気概を感じさせます。
一方、王直はこの後も運に恵まれて、神風の中に転々と身を隠しながら平戸にあったアジトにまで無事戻ったそうです。