根絶やしにされた前世代の倭寇に成り代わって活動を活発にした王直ですが、ザビエルが来日した翌年1550年、倭を誘って船山諸島で交易をした、と記録にあるようです。
五島と平戸のあたりを往来しての密貿易をしていたようです。
このような活動をしていたのは王直だけではなく、他の海賊衆も長崎などに寄港して流通をしていたとのことです。
一時は空白となった海賊海域が、またも稼働を始めたのです。
こうなってくるとまた、略奪も行われるようになります。倭人を仲間に引き入れて襲撃を行うグループもあったそうです。
ここで、浙江省の役人は前回の朱紈の時の失敗を踏まえた賢い方法を選択します。
攻撃的な海賊の対処を、より力の強い海賊に依頼するのです。見返りは海域における密貿易の見逃しでした。
そうして選ばれたのが財力=武力に勝る王直でした。
王直という人はもともと陸地で任侠をしていて、そのような地回りの機微に明るかったのでしょう。また、日本では五峰先生と呼んで儒者だとみなしていた風があるそうですから、そのような政治のできる人であったのだと思います。彼は交渉に応じてこれを引き受けます。
のちに書かれた王直の記録によると、この時に戦闘に出て13隻をとらえ、千人余りを殺し、七人を生け捕りにして女性二人を救出したと書いてあります。
この数字がどこまで正確な物なのかはわかりませんが、大きな戦いであったというのは間違いのないことでしょう。
これによって王直は非公式ながら官憲のお墨付きを得て、かつ貸も作り、また海賊連中に威容を利かせるという利をなしとげました。
実にタオ的な因果の活用です。
これによって足場を強めた王直はより大陸に近い、寧波の向かい側の島にアジトを築きました。
これは非常に貿易に有利な拠点です。
しかし、陽があれば陰が現れます。因果はまためぐって、今度は王直の側が反対勢力の海賊から襲撃を受ける立場になってしまいます。
官に寄り、海賊をせん滅させた王直への反発もあったのでしょう。
朱紈登場の前と同じ、海賊同士の縄張り争いがまた置きます。
王直の反対勢力の急先鋒に、陳思盻という物が居ました。
王直と同じく長崎との交易をしていた商売敵なのですが、彼のやり方が良くなかった。
自分の勢力を大きくして対抗するために、他の船団に同盟を求める物の、その頭領を殺害して勢力を奪い取ってしまうのです。
おそらくあまり頭の良くない粗暴な倭寇だったのでしょう。これでは悪い因果を作っているだけです。こういう人にタオは味方しません。
頭領を殺されたことに不満を抱いた倭寇たちが王直内通して陳思盻の打倒を依頼します。
これに対して王直というのは本当に物の因果のわかった人です。タオにのっとった行動をします。
まず、他の海賊に陳思盻の悪行を説明して協力を取り付けます。
味方になれば交易で利益を生み出してくれる王直と、味方を殺す陳思盻では、どちらに着くかは明らかです。みごとに勢力を増加させることに成功します。
さらには念のため、前の貸しをうまく使って官兵に陳思盻の討伐を依頼します。
そして、逆に自分がそれに協力するのだというような体裁を取って兵力の増強と因果のうまい結び方を成し遂げます。
その上で陳思盻の部下が襲撃に出た隙を狙って、彼の首を取ることに成功しました。
こうして陳思盻の財産をみんなで山分けして信頼をさらに高め、また彼の部下を吸収しました。
これにより「海上に二賊なし」と言われるほどに王直の一派は巨大な勢力となっていったのです。