二大王の軍が敗れたのち、今度は倭船七隻、乗り込んだ倭寇数百人という部隊が三度目の襲来。
官軍はこれを押し返すも、今度は三十七隻に増えて帰ってきてしまう。
このころになると、官軍も倭寇の上陸に対してかなり本腰を入れていたため、敗北をすることはなかったものの、ここが相手が賊軍であるということの恐ろしさ。
倭寇の上陸部隊は船に戻らずにそのま旅団を組んで陸上を行軍し始めてしまいます。
官軍側の記録に「倭寇は陸に上がると強いが船の上ではそうでもないから海戦の段階でたたくのがよい」という記録があるように、どうも倭寇連中の地力は地上戦にあったようなのです。
これ、倭寇が実は各地の陸上民を多く取り込んでいた混成旅団だったということを反映しているような気がします。
この大倭寇が、単なる海賊の襲撃ではなくて明への革命運動だったということもわかります。
それを体現する通り、地上に上がった倭寇部隊は移動をしながら現地の人々を取り込んで勢力を拡大してゆきます。
こうなってくるともう倭寇と現地人の区別がつかないから対処に困る、といったようなレベルではありません。
地元民が倭寇です。
手を焼いた官軍は様々な手を打ちます。
それらの手の内、印象に残るのが狼兵の投入です。
これは雲南省からベトナムにかけて住んでいる少数民族で、のちに太平天国にも参加している人々です。
彼らは勇猛果敢で知られており、はるばる東シナ海までやってきて参戦していたのです。官側の本気が伝わってきます。
戚継光将軍の投入もその一つです。
また、平戸にいた王直に使者を送るというのもその一つでした。
このころの王直は、旗艦と数千人の手下とともに平戸、五島の日本領に滞在していました。
彼がいることでポルトガル船が平戸には多数訪れ、大変な賑わいだったと言います。
しかし、方やでその手下は朝鮮半島にも襲撃をしかけ、明国側への波状攻撃に参加していました。
明国側では最初の討伐の書状にあったように、この大倭寇が王直によるものだという見方が続いています。
実際、明が奪取した船山諸島の拠点には、逃散した倭寇たちが戻ってきて奪回戦をしかけてきています。
明の記録ではこれを「王直に通じる者」としていますが、同時に「船山の人」とも書いています。
つまり、地元民としては王直一味よりも官軍のほうが評価が悪かったということでしょう。
ただ、実際に大倭寇が王直の一味だったとは言い切れないものがあります。
というのも、地上戦に出て現地民を吸収していった旅団は、簫顕という別の倭寇の頭目が率いていました。
これは「王直も簫顕の前でははばかる」と言われた実力者です。
彼の旅団は江蘇省に入り、現地の勢力を吸収しながら次々に年を攻略していったと言います。
江蘇省というのは、北は山東省、南は上海に広がる地域です。
山東も上海も、中国武術で知られた土地です。
これは山東が昔から海賊被害があったためだと言いますし、上海は都会で地方の人が交易に来ていたからだと言います。
ちなみにこの山東省を代表する武術が蟷螂拳です。
今回お招きする施安哲先生は、この蟷螂拳の名手となっております。
このような地域で簫顕が吸収していた人々が、このような武術を用いる現地の武装勢力であったことは明白です。
一説には彼らは塩賊であったと言います。
塩賊とは、塩の密売人です。
中国では塩は国の独占販売品であり、密造したり販売することは禁止されていました。
水滸伝で有名な好漢たちも塩賊であったと言われています。
この強力な合併軍と交戦して官軍は敗北、千人規模の死者が出たと言われています。
つまりこれは、王直が居たことで調えられていた官と民のバランスが、彼が居なくなったことで一気に崩れて問題が一斉に暴動化した結果だともいえるのです。