南少林という革命兵士の養成所について書いてきましたが、前に書いたようにこれ、実在がまだ確認されていません。
というのも、伝説の上でも結局は焼き討ちにあったという物があるので、やはり帝国軍に発見されてしまったのでしょう。
白眉道人が嵩山少林寺ではなくこの福建少林寺の弟子だったのだとすれば、彼が裏切ったというのもここでなのかもしれません。
日本では長いこと、北派が高級で南派は低級だという嘘がまかり通ってきましたが、これは中国ではあまり聞かないことのように思います。
ただ、北が政治的にリードしており、北派の拳法のほうが歴史が古いとされているという話から、歴史的な優位が北にあるという見方はあるかもしれません。
その上でなおの私的見解なのですが、山東蟷螂拳の膨大な内容のうち、喧嘩殺法的な部分と短勁が中心となって南で多くの門派に伝わったのだとしたら、ちょっとした偏見の元にはなるかもしれません。
喧嘩殺法の部分は革命戦士には非常に重要なのですが、何十年も生きて一生かけて追及するような学問としての武術とは一線を画すことになります。
そのために、南派が戦って弱いという人はいませんが、あまり高尚ではないという見方をしている人はいるかもしれませんね。
とはいえこれは現代社会においてはちょっと気を付けて取り扱わなければならない処のようにも思います。
というのも、元は命を懸けて国のために働いていたからこその必要があった喧嘩殺法的手法です。
それを平和な時代に振り回していたらちょっと問題があるでしょう。
正当な拳法を学んだ中国人老師方は、喧嘩拳法に長けた老師を弱いとは言わない物の、やはり少し鼻白んでいるという話は聞いたことがあります。
そのようなチンピラは黒社会御用達の拳法としての南派という印象はあるのかもしれませんね。
私自身も中国人の友達に拳法をやっていると言ったときに「なんでだ? あんたヤクザか?」と言われたり韓国人の友達からは「親がよく許したな。どういう家庭だ? 普通の優しい家か?」と訊かれたりしました。
確かにエスクリマも、海外での評価がフィリピンにフィードバックするまでは本国ではチンピラのやるものだと思われていたそうです。
両者に共通するのが、腕試し的技法の橋法(腕を絡めあって戦う技法)への依存度です。
これはボクシング的なスポーツの世界ではまず行われない技術です。
また、古伝の高級武術でもあまり固執はしない部分です。
そこに専念して一対一の腕比べにこだわるところが、喧嘩拳法だとみなされがち、あるいは実際にそのようになってしまいがちはところがあったのかもしれません。
王郎の単通との勝負というのは、両腕が通背功で通っている正当な勁力主義に対して、セミを捕まえるような蟷螂手法での橋法による勝負優先主義が勝りうるという問題を提示していたのかもしれません。
そしてこのことは、数や装備で勝る相手にいかにして勝るかという革命戦のゲリラ戦の思想につながるのではないでしょうか。
ラプンティ・アルニスの独特の接近技法を体験してくれた人が「これは泥試合の戦い方だ」と言ったことがありましたが、まさに海賊衆の武術とはそのような物だったのとしても不思議はありません。
そしてそのようなゲリラ戦喧嘩拳法のアジトが、台湾です。
共産党革命で武術家が台湾に大挙して移住するよりずっと前、すでに鄭成功によって台湾は洪門のアジトになりました。
1662の鄭氏政権の確立です。
これは鄭成功率いる反清勢力が台湾を占拠して、海賊兵団の国としたという出来事です。
興味深いのは、鄭成功がこの国を「東都」と命名したことです。
そう、かつて呂宋国の首都であった場所と同じ名前です。
ここにもこの海域に暮らす「海を住みかとする人々」の社会のつながりを感じることができます。
福建少林寺から発生したという白鶴拳は、現在では台湾を第二の本場として知られています。
ここにおいても通称を「福建白鶴拳」ないし「福州白鶴拳」と呼ばれているようです。
前回で話がちょっと北上してさみしかったので、今回は強引に南に戻してみました。
なお、この鄭氏の東都王国はわずか23年の期間で、帝国軍による反清複明撲滅運動の攻撃にあって滅んでいます。
ただこの短い王国は、現代でも台湾の人々の精神的支柱となっているとのことです。