鄭氏台湾王国「東都」が帝国軍によって滅ぼされ、福建少林寺も白眉道人の裏切りによって焼け落ちたと言われています。
それ以降の、明教、白蓮教、海賊勢力である洪門はそれぞれ潜伏して地下活動に入りました。
それが再び一斉に活動をするのが太平天国です。
これは我々にとっては大変に関係の深い歴史的事変です。
なにせ我々鴻勝蔡李佛拳と言うのは、太平天国に由来して「太字拳」「平事拳」「天字拳」「国字拳」という套路があるくらいです。
順を追って説明してゆきましょう。
1815年に生まれた広東の少年陳亨は、叔父から洪拳を仕込まれます。場所が海際であったために、洪門の拳がすでに広まっていたのでしょう。
才覚を現した陳亨は李家拳を伝える李友山という拳師からそれを学びます。
その後、伝説によると彼はさらなる奥義を求めて師を探し歩き、とうとう至善禅師に遭遇したのだと言います。
あの、南拳五祖のです。
陳亨はそこで至善の教えを受け継ぐ蔡福禅師から教えを受けることを許され、彼の少林拳を継ぎました。
修行を終えた陳亨は広東に戻り、そこで海賊の襲撃に対する自衛団の指導者となります。
そこに、李友山の弟子であった張炎という少年が入門してきます。
この辺りがまた何かの縁故の働きを感じさせるところです。
その力はこの後もさらに働きます。
住み込みでの五年の修行をした張炎に陳亨は、自分が修行時代に聞いた青草という僧の少林拳の話をし、彼はさらに高い技術を受け継いでいるのでそこで修行をするようにと送り出します。
張炎は青草僧を見つけ出してその下で八年の修行をします。
この青草僧が洪門の熱心な活動家であったらしく、張炎は思想教育を受け、活動のネットワークに加えられて国に陳亨のもとに返されます。
この時、僧は張炎に洪の勝利を意味する鴻勝(洪と鴻は発音が同じ)の名を与えました。
師のもとに帰った張炎は、陳亨とともに李家拳と蔡福禅師の拳法、そして青草僧が与えた佛門掌を統合して蔡李佛拳を編纂しました。
こうして陳亨は洪の字を残した「洪聖館蔡李佛拳」を名乗り、張炎は「鴻勝館蔡李佛拳」を興して革命活動家の間に広めてゆきました。
彼は1851年に始まった、太平天国の乱に参加します。
これはキリスト教革命をお題目にした革命運動だと言われていますが、実際にはこれまでの大倭寇や白蓮教の反乱と同じく、その周辺に革命勢力が合流して起きていた物です。
張炎以外にも、様々な武術家がこの革命に参加していました。
特に清朝の弾圧で大虐殺をされていた回族の拳法が盛んだったようで、この活動の中で八極拳や心意六合拳との技術交流が行われたと言います。
八極拳は今回の企画では蟷螂拳の元の一つ、巴子拳として前に出てきましたね。
心意六合拳については十大形で触れました。
さらに言いましょう。この太平天国というのは、客家から始まったものです。
科挙で役人になろうとしていた政治青年の洪秀全という人が始めた革命なのです。
ほらね、すべてがつながってきたでしょう?
これがスーパー拳法大戦と私が呼んでしまう所以です。
海賊武術に八極拳、心意六合拳、龍形拳に南蟷螂拳と言ったここまで書いてきた革命拳法が一斉に蜂起したのです。
対する清朝側の拳法はと言うと、愛新覚羅家をパトロンにしていた太極拳や、後宮の護衛官を訓練していた八卦掌です。
これがどうも、白眉道人が内家拳に傾倒していたから革命活動を裏切ったという伝説の元ネタのようです。
しかし、別にどの門派も一丸となっていたわけではありません。
特に、清朝末における八極拳の活躍は縦横無尽です。
皇帝のボディガードが八極拳士だったように、実は八極拳はサイヤ人のようにあちこちにやとわれて分散していたのです。
現代でも回族系八極拳と漢族系八極拳が分かれていることとも関係があるかもしれません。
最終的に、太平天国の息の根を止めたのもある意味でこの八極門でした。
軍閥である曾国藩とその弟子である李鴻章は、八極拳士を雇って兵を調練していたと言います。
彼らの率いる軍によって大打撃を受け、奪い取ってアジトとしていた南京を陥落させられて、この革命運動は終息に向かっていったのでした。
張鴻勝こと張炎師は、こののち台湾に落ち延びていったとの伝説があります。