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大倭寇後の武術史私論 10・そのころの日本と言ったら

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 清朝中国が太平天国革命で激動しているころ、現地でそれを見ていた日本人が居ました。

 高杉晋作です。

 幕末の志士で有名な人です。

 当時の江戸幕府で物議をかもしていた開国論の調査の一環として、貿易をできないかの査察に行ったのです。

 高杉晋作と言えば長州の藩士で最後は風邪をこじらせて亡くなったなんて話が有名でしょうか。

 実はもともと肺病病みだったらしく、それで短命を自覚していたのかそれとも師匠の吉田松陰が亡くなった直後でその「狂の思想」を示さねばならないと忠誠心に燃えていたのか、テロ活動に出る気まんまんだったそうです。

 ちょうど政治的に微妙な時期で、そんなことをされては大迷惑と感じた木戸孝光が、高杉さんを外国船に押し込んで遠ざけてしまいます。

 正直とにかく扱いづらいことで有名だったらしい高杉相手に、木戸孝光もそんな簡単にことは運ばないと思っていたようなのですが、そこはマッド・ドッグ高杉、戦争と最新兵器が観れると以外に乗り気で船に乗り込んで上海に向かったようです。

 実はこのころすでに中国ではアヘン戦争と太平天国が起きてることは日本でも知られており、太平天国党の下位組織である小刀会に上海が占拠されているのを知っていた高杉さんは、そこでの太平天国の戦闘が見たかったそうです。

 これはどうも、吉田松陰が生前、洪秀全を軍略家として高く評価していたのとも関係があるようです。

 そんなわけで高杉が上海につくと、一旦は欧米の軍によって太平天国党は追い払われた後でした。

 しかし、周辺は太平天国に包囲されており、時々交戦の音が聞こえたそうです。

 不安になる仲間たちをおいて彼は大興奮し、戦争が見たい太平天国党が見たいと手記に残しています。

 ですがここで彼が実際に肉眼で見たのは、上海を守るために来ている列強の兵士たちに対して中国人がオドオドしている姿でした。

 これを目の当たりにして彼は、列強の支配とはこういうものか、洋人を決して日本に入れてはならぬとの思いを強くしたようです。

 帰国後、高杉さんは奇兵隊を組織します。

 外国との交渉にかかわったり、幕府軍と戦ったりの人生を送ったのち、先ほど書いたように肺の病を悪化させて若くして亡くなります。

「面白き ことも無き世に 面白く」「三千世界の鴉を殺し」などの文の才能もあった人であり、かつ剣術にも打ち込んだ、見事な人生であったようです。

 なお、彼が皆伝を受けた剣術というのは、奇しくも新陰流でありました。

 

 さて、高杉さんをしのびながら思い出してください。

 陰流が発祥したとき、日本はまさに戦国時代でした。

 明国に倭寇をしていた時代ですね。

 そして高杉さんが亡くなった幕末、清朝もまた末期で太平天国が起きてます。

 つまり、大倭寇から太平天国の間に、日本では江戸が始まってもう終わるのです。

 日本で流儀武術というものが生まれて、最盛期を迎えて今度は急速に終息して行った期間が、この山東蟷螂拳が伝播して行った時代にまるまるスッポリ重なるのです。

 次回はここを振り返ってみようと思います。


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