さて、倭寇の時代の本邦にさかのぼってみたいと思います。
まず、初期倭寇、元寇の仕返しがあった時代には流儀武術があったという明確な資料はないようです。
いちおうその土台となる合戦の戦法はあったようですが、システマチックな物として体系付けられてはいなかった、ということでしょうか。
歴史上信頼のおける資料ですと、その後の南北朝時代には兵法三大流派の最古の物である念流の念阿弥慈恩が居たと言われています。
ここで面白いのは、この流儀の発祥伝説が、父の仇を討とうと鞍馬山で修行をしているときに異人と会って秘伝を託された、という物であるところです。
この鞍馬山牛若丸が住んでいたところです。
牛若丸と言えば、カラス天狗と剣の修行で有名ですね。
つまりここは、昔から異人と剣を修行する場所であるとみられていたわけです。
ちなみに鞍馬山というのは、サンスクリット語のサマート・クマラという言葉からきているそうです。クマラが鞍馬になったのですね。
このクマラ、ヒンズーの神話にある聖者の名前だそうです。
クマラ信仰が起こる前は、毘沙門天を祀っていたと言います。毘沙門天ももとはインドの神様で、中国では託塔天王とも呼ばれて戦の神様になっています。
演義小説では、孫悟空と対等の力を持つ那托太子の父親として知られています。
もともと、異国の武人を祀っていた場所なわけです。
だとすると、ここに本当に異国の武人が居たとしてもおかしくはないですね。
日本の仏教では現在、なぜか中国では行われていたヨガや気功、武術が行われていないようですが、この時代に行っていなかったという保証はありません。
念阿弥慈恩、この山で修行を積んだ後はさらに鎌倉に行って僧に教えを請うたり、仇討ちを果たした後は禅僧になっているあたりからも、禅系武術の気配が非常にいたします。
これらの資料がもし正しければ、日本剣術と禅の密接な関連性は、江戸時代になってからの剣士たちが言い出したのではなくて、そもそも成立初期の段階からあったのだということができます。
これは非常に中国的なお話です。