稽古に来てくれている学生さんの進歩はうれしいことです。
先日、勁力の本質が掴めてきた学生さんがぽつりと「いつも言われているエゴの意味が判った」と言ってくれました。
私はよく稽古中に「エゴで打っちゃダメです」とか「もっとエゴを捨てて」というようなことを口にするのですが、耳あたりの言い単語ではないですね。「エゴイスト!」なんて罵っているようにも感じられるかもしれません。
ここで言っているエゴと言うのは、老荘思想での後天的な自我である識神のことです。生まれてきてから自分の人生を通して経験してきたことや学んできたことで作られてきた自分のことです。
世間知や聡明さもこちらに入ることがあるので、決して絶対的に悪いものということではありません。
しかし、人間はどうしてもこのような部分が強くなりすぎて負担がかかってしまうので、生まれる前から肉体に宿っている自分の部分、身体知や野生の知と言われている部分を取り戻すのが中国武術の特色です。自分の中のそのような面を、識神に対して元神と言います。
気功や内功と言われるものは、この元神を活性化させて、動物的な部分を活性化させるための練功法です。
この元神は動物的だけに自然と調和をします。これが老荘思想で最も大切にしている「無為自然」「天人合一」に至るための物です。
強い打撃をしようとすると、どうしても大きく振りかぶったり力を混めたり不自然な加速をしたり体重をかけたりしてしまいます。
それらは、識神が手ごたえを求めてするものだと解釈しています。
自分が大きな力を出しているのだという安心感を、自分に負担をかけることで確認して安心したいというエゴからくる欲求です。
「確認はしてはいけません」と私も教わりました。「人間は確認が大好きです」。
確認をしてゆけば、目的が確認にすり替わります。自分の弱い心を慰めることが目的になってしまう。こえは自分を弱くする訓練をしているようなものです。
弱さに飲まれてしまわず、結果に意識を先回りさせず、ただやる。
この、ただやるということにエゴの切り離しがあります。
発勁も、よけいなところに力を入れたりラグを作って力感を感じようとさせず、ただ部品として与えられた練功の一つ一つを淡々と組立ててゆくだけです。
すると、なんの力強さも速度も感じずにただすとんと触れただけで相手の内側に勁力が伝わってゆきます。
大切なのは、安心できるかどうかではなくて正しいかどうかです。
正しく行えば正しい結果が勝手に出ます。
小石を上に投げればやがて下に落ちてきます。どんな気持ちで投げるかは関係ない。ただ自然の摂理が働いているだけです。
この自然の摂理がタオです。これが、自分の内側にも働いています。
今の世の中は、口先一つのものいいで自分を慰めたりするスピリチュアルというような物が流行していますが、そのような自我のレベルでのことを自我のレベルでごまかすような習慣からまず離れなければなりません。
儒者の言葉に、「巧言令色すくなし仁」と言います。上手い言葉や当たりの良い取り繕いに本物はないという意味です。このような世間知はエゴ同士のやり取りには功利もありましょうが、自然に通じるものではありません。
エゴを切り離したとき、内側に自然の法則(タオ)が満たされて、それがよどみなく働きます。これを則天去私(私を捨てて天に則る)と言います。
我々は人間を相手に突き蹴りをすることを目的にしているのではありません。
自然の法則に乗っ取ってゆくことを目的としています。
エゴのレベルで稽古をしていてはいけない。
自然のタオに一致した術が行えた時、冒頭の学生さんの言葉のような感慨に至れます。自我による束縛を離れた、ただあるがままの自分を取り戻せます。
真実と一体となる思想のための行として、我々は武術を行っています。
エゴを切り離した自分の中にタオが作用しているのを実感できた今、ある意味でこの学生さんの修行は終わったと言ってもいいかもしれません。
そこが確信できたなら、もう武術を行わないでも、自然の一部として生きるという意味が理解できたはずだからです。
武術はあくまで手段であって、決して目的ではありません。