本日の稽古初め、コーコーさんと打人の実験をしました。
平馬で動くことなく、ちょこんと打つという發勁の練習です。
これは私が高級技法として習ったもので、コーコーさんは初めて行う物でした。
立ち方も重心も変えない、スタトンの発勁法なので、頭では習ったことをわかっていてもつい格闘技的な打ち方をしてしまう人には大変困惑を招くものです。
人間、どうしても欲に流されてよけいなことをしてしまう。しかし、我々の拳はタオの拳。法の拳です。自我を主とするのではなく、内を空に澄ませて天地に働く力をただ通すことを学ばなければなりません。
未経験の状態では、やはりどうしても断片的な力を使ってしまいます。一発目は私の腹筋に当たり、ボン、と芳しい音を立ててはじかれました。
これは大変面白いことです。かつて格闘技をしていたころには、こうやって筋肉の厚さで攻撃をはじき返してきたものです。つまり、コーコーさんの一打目は完全に格闘技的なパンチだったということです。
この失敗を体験したことで、どうやら諦めがついたようです。気持ちを切り替えて、二度目で教えに忠実に、結果はどうなってもいいやという気持ちでなのか、すっとただ手を伸ばしてくれました。
それがさっきと同じ場所に触れると、私の内側、仙骨にまっすぐ突かれた感覚が伝わってきました。
これです。これが内側に浸透して中に干渉してくる我々の勁力です。威力が強くなっていたなら、私の仙腸関節はゆがまされてしまい、ことによっては歩くこともできなくなっていたでしょう。
外形に捉われず、伝承通りにただやる。これが暗勁の体得には重要です。
しかし、人間どうしても不安になって力感を内側に作って安心したくなってしまう。しかし、それは失敗のもとです。
確認はエゴの欲求であり、自然にあるものではありません。タオに乗っ取ったものではない。則天去私こそが私たちの武術です。ただやれば成功する。
この我々の武術の勁力を、私は弁慶の勁力と言いました。
死んでも倒れない立往生の整勁です。
対して、体重移動の発勁は牛若丸です。
ある有名な北派の先生は、発勁は走り幅跳びで相手の中に着地するのだと言いました。まさに欄干を飛び移り、八艘飛びを切る体技です。
しかし我々は、ただ立ち続け、身じろぎもしない定力を求めます。
それにより、ただ軽く触れただけで相手をフっ飛ばし、バラバラにしてしまう金剛力を生み出すのです。