Quantcast
Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
Viewing all articles
Browse latest Browse all 3388

客家と中国武術とエスクリマのお話

$
0
0

 これまで、この場では主に中国拳法のルーツがいかにして少林寺に伝来してどのような物として発展し、そして南進して行ったかを書いてきました。

 その中でも、清朝の時代において洪門と言う革命結社に少林武術が結びつき、それが海賊組織として機能してゆき、倭寇となって海賊武術の態を形成し、大倭寇と言う多国籍反乱勢力を結んで一大革命に挑んだ歴史をつづるに当たっては最先端の研究結果を発表してきた武術ブログであることを自負しています。

 特に、もっとも南進したフィリピン(南宋帝国内東都王国)の武術史においては、スペイン入植より前から中国武術が根付いていて、それが現代フィリピン武術に与えた影響の得意な結果としてのラプンティ・アルニスという古典エスクリマを流儀として継承して日本に持ち込んでいることは最大の成果だと思っています。

 そのラプンティ・アルニスに東都から洪門拳法を持ち込んだMASTERジョニー・チューテンおよびその師の劉錦師父についての情報の発掘がこのところの最大のホット・トピックですが、今回、なぜこれまでのあらすじを長々書いているのかと言うと、新しい切り口からこれらの歴史を掘ってみたいと思っているためです。

 それは、客家という民族からの視点です。

 客家というのは、中国に60ほどいる民族の内の一つですが、特徴的なのは多数派の民族である漢民族と医学的には同じだということです。

 漢民族の内、戦乱などで生まれた土地を離れて集団で流浪の民となった民族が客家なのです。

 他の民族の土地に移動してそこで巨大なテントのような集合住宅を築いて暮らすことから、お客さんと言う意味で客家と呼ばれるようになりました。

 彼らの移動の歴史は古く、最初の物は始皇帝によって漢帝国が発生した時だといいます。

 それまでは黄河流域に住んでいた人々が、始皇帝による南方民族の侵略を牽制する軍勢として広東に送り込まれて移住し、そのまま住み着いてしまったのだそうです。

 次の移動は五胡十六国の乱のときに戦火を逃れて山西、河北、河南の人々が黄河を渡ったときである、と言います。

 その次は唐の時代の終わりに黄巣の乱がおきてまた人々が逃げて客家になったようです。

 この後のところが、私としては注目したいところです。

 時代は南宗のころ、北から領土を広げていた騎馬民族から逃れるために皇帝が南に向かった折に、すでに広西や福建に移住していた客家の人々が、皇帝を守るために広東に集結したのだと言うのです。

 しかし、歴史に詳しい方はご存知のように、この戦いで南宋王朝は破れて騎馬民族の王朝が南北を支配することになります。

 敗れた南宋の王家の人々が海を渡って逃れた先がフィリピンであり、彼らはそこを宗王朝の最後の土地として呂宋と名付けました。いまでもフィリピンの首都のマニラがあるルソンの名前の由来です。

 ここまでは以前に倭寇の記事を書いたときもしたお話ですが、今回はこの客家の動きに注目してください。

 まず、彼らの移動元が、山西や河北、河南など現代でも武術の里と言われるところであることが武術史的には非常に興味深いところです。

 そして、そこから移住した先が福建や広東など、現代でも武術の本場であるというところも非常に意味が深いと思われます。

 つまりこれ、少林拳の南進ルートをそのままなぞっているのです。

 南宋王家を守るために一度は終結した客家の人々は、その後敗れて散り散りにそれらの地域に潜伏してゆきました。

 また、ルソンに渡った人々もいたであろうことは想像に難くありません。

 ほら。これまでここで語ってきた、中国武術の南進ルートからさらに、フィリピン武術につながるルートがもはやこの時代に作られているのです。

 つづく


Viewing all articles
Browse latest Browse all 3388

Trending Articles



<script src="https://jsc.adskeeper.com/r/s/rssing.com.1596347.js" async> </script>