燃えよ! じじぃドラゴンという映画を観ました。
https://www.youtube.com/watch?v=dJQ-kszDDws
カンフー・ハッスルのフォロワー映画で、向こうで悪役の火雲邪神を演じていたブルース・梁が主人公の師匠各のひとり、というかほぼ主人公のような役を務めています。
あらすじで言うと、かつて武林を席巻していた武館(道場)の館長である師匠が居たけれど、ある時立ち合いで重傷を負って以来寝たきりになってもう何十年も目を覚まさない。
たくさんいた生徒たちは散り散りになって、残っているのは拝師弟子(後継者)の二名だけ。なのだけどその二人ももう還暦を越えている。
そこに、最近はやりの(香港では実際にちょっと流行りました)おしゃれなスポーツとしての格闘技武術をやりたくなったダメサラリーマンが訪れて、ひょんなことから目を覚ました大師匠は浦島太郎状態で、若いサラリーマンを自分の弟子だと思い込み、今時のスポーツ武術の試合に鍛えて送り込もうとする、という話です。
この作品、おじいちゃんの勘違いに振り回される人たちを描いた泣き笑い人情コメディなのですが、背景として設定されているのが、新しい香港の武術の世界と、伝統武術の軋轢です。
現在の香港映画では、おしゃれな若手俳優がアクションをする作品が沢山作られているのですが、昔ながらの武術映画というのは、本物の武術家がみすぎよすぎで出演していて、花形の主人公になぎ倒されるような日本でいう斬られ役の人たちが、ものすごい迫力の本物の武術を披露していました。
獅子舞や薬売りと同じく、演劇、映画は武術家の大事な収入源だったのです。
気になった方はぜひレンタル屋さんに行って確認してみてください。有象無象の不細工なチンピラたち、すごい身のこなしですから。
しかし現代のスタントマンたちは、本当に西洋的なスタント。アクションは泰拳(ムエタイ)、JKDや総合格闘技、せいぜい詠春拳どまりで、伝統的な武術の身のこなしは出来ません。
それらの物は西洋体育的な思想を土台としていて、古典の内容がスポイルされています。
泰拳は少数民族の泰族が行っていた物は今は希少武術となっており、現代化した競技がすごく隆盛しています。
JKDは中華的な古い物を取り払ってそれがやろうとしていたことを西洋のパーツでリニューアルしようという試みで始まったものですし、香港系の詠春拳は、武術家でなくても誰でも体育的、幾何学的な取り組みで喧嘩に勝てるようにとより現代性を前面に出して作られた物です。それを推し進めたイップ・マン先生が、一大宋師と呼ばれるのはこのモダンスタイルの中興の祖であるためです。
よって彼らは、獅子舞も大兵(騎馬戦や戦車戦、海上戦で使う兵器)もやめ、獅子舞や符牒なども置き去ってゆきました。
これはジャッキー・チェンの映画が全盛だったころに、カンフーと称してテコンドーを盛んに取り入れていった辺りからの必然の流れだったのでしょうね。
もちろん映画の新味は増して面白い作品は沢山作られたのですが、本物の武術の大師父や、その徒弟の立ち回りを観ることは出来なくなってきました。
表演武術のリー・リンチェの台頭やその看板演出であるワイヤー・アクション、そしてCGの発展もこれに追い打ちをかけたことは間違いないでしょう。
ほんものの武術をする不細工なチンピラ(失礼!)を出すよりも、眉目秀麗な俳優を特殊技術や演出で補う方向に映画として進化してきました。
燃えよ! じじぃドラゴンはまさにその、二つの世代が戦う映画です。
敵役のオシャレなスポーツとしての武術を広めているグループのアスレチック・クラブに試合を申し込みに行った大師匠はそこを見回して「こんな奴らと戦うのか?」といぶかしみます。それはそうでしょう。
任侠の世界に生きて動乱の戦時を戦ってきた世代からすれば、まるきりの素人のボンボンたちにしか見えないはずです。
実際、試合に出てくる選手たちは飛んだり跳ねたりの華麗な現代格技を披露します。
しかし、大師匠のつける訓練は、木人を打ち、波にのまれて自然と強調する古典的な物。
そこで教えられることも、身体をとおして心に向き合え、心を通して意識に向き合え、意識を通して精神に向き合え、精神を通して自然と繋がれ、という私がいつも書いているタオや禅の考え方「天人合一」です。
私は現代格技にはまったく関心がないので、この映画の中で武術的に最も刺激を受けたのは、敵方が雇った古い世代の武術家の刺客と主人公がわの還暦拳師が戦うシーンです。
相手は白眉拳なのかなあ。似たような物が多いから特定はしきれないけど、そのグループの客家拳法を使ってきて、味方側の老拳師は蔡李佛っぽい長勁の拳法で相対します。
この二人の戦いがまぁ見事な伝統武術同士の戦いで、周りにいたチンピラや襲われていた主人公も思わず動きを停めて見入ってしまうのです。
その戦いの中、老拳師は我々でいう掛錘で相手を追い込みます。
打ち飛ばされた相手がなんとか追い打ちを避けようととっさにそこらにあった鉄パイプを構えて防ぐのですが、それを老拳師の掛錘は撃ってへし曲げてしまいます。
まさに我々の鉄線功が表現されているのです。
最終的には鉄パイプの上から掛錘の上位技法である鞭錘を打ち込んで倒すのですが、この辺りはわかっている人間にしか作れない「読めるアクションシーン」です。
最後の対決では、スポーツの試合ではなくて古典的な果し合いになるのですが、ここでこの映画からの答え突き付けられます。
主人公側はあくまで伝統。それに敬意を持っている敵役側の師匠はこれを真摯に受け止めるのですが、その若い弟子は無礼な態度をとって師匠から「お前は黙ってみてろ!」とたしなめられます。
それでも軽薄な態度は改められず「いまのなんて技ですか!?」などと果し合いを見届けている最中に訊いて怒られたりしています。
これが非常に重要なところです。
彼には技しか見えていない。
それは、師匠が技しか教えることが出来なかったからです。オシャレなスポーツとしてしか伝えられなかったことの側面なのでしょう。
果し合いをしているのは、主人公では無くてもう一人の老拳師とオシャレジムのチャンピオンなのですが、この殺陣では、古典対もろにいまどきの跳んだり跳ねたりのスポーツ競技の様相が描かれます。
そしてその結末は、安易な物にはなりません。
やはり、一体一での試合においては、古い武術を使う老師は現役の競技のチャンピオンには勝てないのです。
兵器も使わず、相手を死に至らしめるような技も用いず、堂々と戦った老武術家は、古傷も悪化して(平素から膝を保定して生活している)ぼろぼろになって敗れてゆきます。
敗北に沈みながら大笑いをする老拳師の姿に、敵方の師匠は自分の弟子に言います。
「分かったか」
これが本物の武術なのだ、ということです。
そして両者の間に敬意を伴った和解が芽生えます。
よく、受験に受かるための詰込み型の勉強のことを「あれでは本当の学力はつかない。意味がない」と言う声を聴きますね。
六年も英語をやってもまったく話せない日本の教育システムに関する疑問もこの辺りに由来する気もします。
でも、日本の武術界では、いまだに勝つだ負けるだ強いだ弱いだ、何が最強だと言ったようなことを言う人が沢山います。
おそらく、技の追求が盛んであることもこれと比例しているのでしょう。
そこでは無いのです。本物の武術は。
手先の技法に夢中になって、他人との優劣に心を囚われていては本来最も大事である物を学び損ねます。
武術はそのように、人や人の作り出した狭い社会での対人関係に執着するためにあるものではない。
むしろその逆です。
大きな真実、大きな世界とただ一人向き合うための方法です。
他人の身体と向き合ってもしょうがない。
自分の身体と向き合い、身体を通して浮つきやすい心と向き合い、心を通してそこに働く意識と向き合い意識を通して自分の存在すべてと言ってもいい精神と向き合う。
そしてその精神が宇宙の一部であることを強く実感することで、世界と一つになる。
これはその、エゴを澄まして天人合一を正面から描いた、素晴らしい映画でしたよ。
こういう作品は、本物の武術を知っている人にしか作れませんね。
この後の香港では、ハリウッド風の物ばかりになってしまうかもしれない。
もしどこかで見かけたら、一度ご覧になっていただくのも良いかもしれません。