ちょっと個人的なことを書いてみたいと思います。
いまでこそ毎日幸せに満ち足りて生きている私ですが、その土台となっているのは十年ほど前までの「最低の日々」でした。
何もかもが悪いことの積み重ねで、悪いことが悪いことを呼んで雪だるま式に積み重なっていました。
特に繰り返されたことは、身の回りの不幸な人を助けると今度は状況が改善されたその人が悪事をする側に回るということの繰り返しでした。
また、その対象が私に向かった裏切りのパターンもおなじみのことでした。
それでも、誰かがどこかでなんとかしなければいけないと思っていたのですが、結局ほとんど改善することは出来なかった。
そんなことが何年も繰り返され続けて、何もかもが嫌になっていたところで、カンフーや気功(およびそれを与えてくれた師父)が救ってくれました。
いまでは、世の中に悪を振りまく人々を、可哀そうな人々だなとばかり思います。
それらのひとびとは、最低な中で生きていたころの私と共通するところがあります。
それは、自分の心に囚われてしまっているということです。
この場合の自分の心とは、その善悪を問いません。
悪意に囚われるのと同じく、善意にもまた囚われるべきではないということを私は学んできました。
ポイントはその内容ではなく、囚われると言うことそのものだったのだと思います。
稽古をしている時によく言われたのが「頑張ってはいけません」「集中しないでください」ということです。
それらもまた、向上心や結果を出そうと言う意欲に囚われてしまっている。
意欲という言葉には、欲という字が入っていますね。それもまた我欲に囚われてしまっているということです。
拳法や気功で学ぶのは、自分の内側に引き寄せられないということです。
ぼーっとして、ただあるがままにそこにあり、淡々とやることをする。
いわば波立つことのない水のような状態です。
水面が揺れていれば映るものがゆがみます。
それが心であるなら、歪んだものしか感じられなくなってしまう。
あるがままの現実を感じて、ただ静かに佇むことを体で覚えてゆくのが練習です。
刀を振っていようが棍を振っていようが、あるいはただ林の中で座って気功をしていようが、すべては同じことをしています。
心を澄ませて、自然の一部としてそこにあることをよしとします。
そのためには、自分の内側で起きる心の動きにすべてを飲み込ませてはいけない。
具体的な方法としては、外の自然を内側に取り入れ続けることではないかと思っています。
空を見上げて「空だー」とあるがままの空への感嘆に内側を充たす。
あるいは「海だー」でも「風だー」でも。
そこで「君の横顔みたいな雨だった」というような個人的な詩心に囚われてしまうと、また私心の世界に飲み込まれていってしまいます。
そこは人間が勝手に作った、人間同士の中にしかない、自然界のあずかり知らない世界での話です。
日常生活でどうしても人はその社会への意識に囚われてしまいますので、そこから離れてゆく。
気功で息を吐く時は、そのような娑婆の淀みのような物を外に吐き出して、すうときには在るがままの世界そのものを取り込むようにイメージします。
そうして、社会上の誰でもない、あるがままの自然の命としての自分である時間を作ってゆきます。
そうすることで、命そのものが持っている健全さが活性化し、その力がスムースに働くようになります。
古代の時点で、インドや中国は文明が生まれていました。
その社会の中での文明病にすでに悩まされていたのです。
ヨガや気功は、その社会への執着、自分への執着に対する物として伝えられてきました。
お釈迦様は、他人と比べることが地獄の始まりであると言ったそうです。
他人との関係に執着して、自分が先んじてやろうとか劣って情けないとか、不意打ちであっと驚かせてやろうとかそういう小さい心に飲み込まれた行動が、哀れな悪事となってゆく。
漆黒の強い悪事を断固としてやり抜こうと言うような実存的な悪ではなく、ついうっかりと大それたことをやらかしてしまったような間抜けな悪事というのは、多くがそのような他者への執着が引き起こした物のように思います。
大きな世界と向き合うことで、自分自身の命を活かすことが私たちの推奨したいことです。