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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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カンフーにおける執着との向き合い方

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 私たちの中国武術では、勁という内側の力を使います。

 これが、身体の内側を静かにしておかないと乱れてしまうと言う、いわばある種のチューニングの必要な電波の受信に似たようなところがあります。

 その静めるというのが、勢いをつけない、力まない、体重を寄りかからせないということで、外面的にどれだけ激しく動いているようでも、心と体は静まり返っているところに、禅の行としての本質があります。

 これがただ、トリャーオリャーとあばれる君になってしまうと、ただの腕力や遠心力しか活用できず、高級武術としての本質が失われてしまいます。それならただの格闘技をすればいいのです。

 そこで難しいのが、普段格闘技や現代武道をしている人がこれを体得しようとするときなのです。

 それらの二段、三段くらいの方がやると、おおよそまるで違うやり方でしてしまう。

 どうしてもそれまでにやってきたあばれる君のやり方に囚われてしまって、違うことが出来ません。

 そのような力を古くからの言葉では蛮勁というそうです。

 中国語の蛮には、英語のVERYの意味もあります。蛮好(マンホウ)と言えばVERY GOODの意味です。

 しかし蛮勁はVERY POWEFULLという意味ではありません。蛮の字には粗野と言う意味もあるそうで、この辺りが中国語の難しいところです。

 蛮勁は粗野な力強さという意味で、つまり乱暴ということでしょう。あばれる君です。

 自分の内側を澄まして、静かな勁を引き出してそれを物理的な力として自覚することで、修行の方向性とするために行うのが、対人練習です。

 その一つに、相手を勁で吹っ飛ばすという物があります。

 形は色々あるですが、目の前に相手に立ってもらって、指定した場所を自分が搏つというのが基本的なやり方です。

 その時に相手の表面を叩いて傷めつけるのではなく、きちんと内側の勁を伝えるようにすると、相手は表面に痛みを覚えることなく全身が吹っ飛んでゆく。

 これ、実際にやっていない人には想像がしづらいようですが、不意打ちではなくてちゃんと来るとわかっている方向の力に備えてしっかり踏ん張っている人を飛ばすというのは存外に難しいことです。

 せいぜいがよろめくくらいで、物理的に人一人分の体重が地面を離れて宙に浮くというのは大変に大きな力が働いています。

 しかし、それをやるために自分の体重を掛けてしまう人が沢山います。それを発勁だと言っている人もいる。

 相手の体重を自分の体重で相殺してその上で勢いと腕力で推すのですから、これは蛮勁です。ただの腕力で、それを発勁だと言っている人の中が、ジムでものすごく西洋式の筋トレをしていることがあります。

 それなら武術の練習はしなくても変わらない。

 そういうことをせずに、純粋に勁で行うので修養になるのです。

 しかし、あばれる君たちは息を止めて力み、筋肉を固めて力み、小さくジャンプして助走を付けたあとで思い切り体重を掛けて相手に寄り掛かって突飛ばそうとします。

 何度言っても同じことを繰り返す。

 これはね、修養という視点からみると、自分で自分が制御出来ていないということです。

 現代武道や格技の人が、肉体が未熟な訳はないです。ただ、心が身体を遣えていないのです。肉体に罪はない。心の責任です。

 その拙い心の在り方を訓練によって静めてゆくのが私たちの武術の目的の一つです。

 目の前に相手がいても緊張に囚われず、思い切り突飛ばしてやろうなどと言う欲にかられず、失敗したら恥ずかしいなどという見栄も持たず、ましてやどうやってごまかそうなどと言うことに意識を傾けてもいけません。

 失敗したら失敗するだけ、いつか成功するようにまた練習するだけです。彼我の間に勝敗など無い。

 ただ、やるべきことを淡々とやる。それだけです。

 その、それだけというところが禅です。

 だから我々は、いつも瞑想として拳を練り、勁を養い、そして幸いにも協力をしてくれる相手のお体をお借りして、自分の練習をさせていただく。

 そこになんの悪意や虚栄心の入る必要があるでしょうか。 


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