相変わらず日本の武術界は、ねつ造や創作の今出来武術が横行していて、代々伝わってきた本物には肩身が狭い。
なぜ、遺跡や寺社に守られてきたような秘宝よりも目の前のジャンクフードに手が伸びるのか。
これは一言で云うと、貧しいからなのだと言えるだろう。
身に入る物が少なくてとにかく手近な物に飛びつくという状態は、明らかに貧しい飢えた状態なのだ。
そのような状態で、博物や遺産がなんの役に立つだろう。
好きな言い回しで言うと「餓えた狼に山で囲まれて金ならやる」状態だ。
良くも悪くも現代武道の勢力が強かったこの日本でもう一度伝統武術が復興するには、おそらく一旦格技的な物や即物的な武術が広まりきることが必要なのではないでしょうか。
衣食足りて礼節を知る。まずは武力という物が一定ラインまでいきわたってからこそ、では本物を知るために古典を当たろう、ということになるのではないでしょうか。
そのせいか、うちに来てくれている人は他流の先生や、身体操法のインストラクター、何かのチャンピオンなどのいわゆる玄人が多いです。
より高みを目指す人たちにだけは価値が分かってもらえていることは救いではあるのですが。
ただ、このような武術的に貧しい状態を作ったのは実は伝統側にも問題があったのだろうとは思っています。
私もかつてそうだったのですが、強い弱いやうまいヘタ、勝つや負けると言った非伝統派が最新の技術を持ってこだわっているフィールドで物を語ろうというのが間違いのもとであったと思います。
ただの技や勝負、護身術などのレベルで見れば、古い物が時代の価値観と合わなくなってくるのは当然です。
そことは違う、本来の流儀武術の価値観を、おもねらずに貫いてゆくべきだったのではないでしょうか。
恐らく、世に今出来が満ち足りて伝統の価値が見直されるまでにもう五十年はかかるでしょう。
そのころには私はもうこの世には居ないでしょう。
けれども、何百年も前の時代から引き継がれてきたものを私がうまく未来に受け渡すことが出来ていれば、その時にも私たちの武術は届いていることでしょう。
先師たちがそうであったように、私もまた、百年先を考えた仕事をしなければなりません。
そのような大きな仕事に人生を使えることは幸いです。
パンチがうまいだキックが上手だ言っている暇はどうやらないようです。
これまでもそうであったように、これからも伝統を継承していってくれる人たちに手伝えに武術をお渡ししてゆきます。