いま読んでいたマンガに、非常に示唆に富んだセリフがありました。
「約束というのは神聖だぞ。神聖さを軽く扱うな」
これは、実は非常に重要なことです。
私は基本的に約束を破る人間は一切相手にしないのですが、それは自分の生き方をきちんと持てていないと感じるからです。
では自分の生き方をきちんと持てているとはどういうことかと言うと、この「礼と芸」について書いてきたことに繋がります。
礼を重視した儒教の考えでは、自分自身を個人の物ではなく先祖代々が受け継いできた霊の宮とみなします。
そこから自分という物に伝統の一部としての価値が生まれるので、自分を私的な理由でおろそかにすることは許されない。
すなわち、自他に対する礼が重視されるわけです。
第三者の視点から自己を尊重する。そこに儒的な発想があります。
タオの考えでは、自分を天地の流れの一部として同様にみなします。
これらの「尊重」は言い換えれば「神聖さ」を見出すということです。
このようにして自他の価値を見出すことの出来ない人は、何につけ軽々しく行います。
しかし当然、その結果まで自然界や他人がおもんぱかってくれることはない。
軽々しく毒を飲んだり怖いお兄さんからの借金を踏み倒したりすると、リアルによってトンデモない支払いが訪れてそれをむしり取られることになります。
礼を知るとはそのような物の価値を理解して判断が出来るということに繋がります。
もし、伝統武術の世界でこれを知らなければ、本物を与えられることはありません。
技レベルの形だけは習えるでしょうが、十年経とうが二十年経とうが本当のことを教えてはもらえない。
最近掘り出した古いインタビューにあったエピソードを紹介しましょう。
中国語の翻訳が今一つ怪しいのでちょっと内容のディティールについてはお察ししていただきたいのですが、概ねこんな話です。
八極門に、神槍李という人がいました。
彼は後に名人として知られましたが、張景星と言う師匠について学んだころは、最初に習う基本の物だけを三年間やらされ続けたそうです。
在る日、張師の身内の黄四海という拳師が訪れた時に、神槍李はその基本を披露させられました。
それを観た黄四海は張景星に聞きました。
「授けたのですか?」
すると張景星は答えて曰く、「まさか。授けたら私の言うことを聞かなくなり、禍いを招くだろう。手に負えなくなるようなことをするわけがない」
授けた、とは、本当のことを教えた、という意味です。
神槍李は人となりに問題があるとみなされていたため、形だけは教わっていてもその中身を教わることが出来ていなかった。
そこで黄四海は、まだ教えていないのならば私が本当のことを授けたいので、彼をもらっても良いだろうかと持ち掛け、神槍李を弟子として引き渡されたというのです。
結果、神槍李はそのようなあだ名がつくような名人となった。ということです。
このように、師から見出されなければどれだけの才能がある人間でも決して芽を出すことはない。
礼という言葉は、それだけの重みや深みのなる中身を表現している物です。
私の周りにも、人間的な中身がないために本当のことを教えてもらえず、強制的に卒業させられてしまった人たちが沢山います。
中国ではそのような何も教えることが出来ない人間を破門するときに「あなたはもう十分だ。これで卒業です」と言って追い出すのです。
そのような言葉を真に受けて先生を標榜してしまった人たちのところに行ってしまったらまさに悲劇でしょう。
そう言った後顧の憂いを断つために、うちでは初めから教えられない人には教えられないとはっきり言っています。
人にはそれぞれの人生があります。相手の人生をいたずらに浪費させるようなことは私は好きではありません。
恐らく中国式の考えで言えば、しょせん軽々しくしか生きていない人の生なら、他人が重んずる必要もないということなのでしょうが。
約束の神聖さ、自分の命の神聖さ、それらをいくつも乗り越えて伝わってきた物の神聖さ。
そういった物を受け止めて祀る生き方と言う面が、伝統武術を継承するということにはあるのではないでしょうか。