中国武術を学ぶということは、その哲学や思想を学ぶということなので、たんに運動を練習するということとは違う。自分が近代西洋的な思想に染まっているという自覚がない人間には、それが理解できないことが往々にしてあります。
価値観は多様であるという前提を置き去りにして、自分の近所だけが世界であるようにして生きているとそういうことになってしまうのでしょう。
中国武術とは何かということは、中国的な考え方の視点に立たないと見えてこない処が多い。
1980年代以降、中国共産党の発展政策によって「新代」中国武術が創始されて普及されているため、やはり西洋的な目で見て割り切れるそれが理解されやすいというのも、本当の伝統武術の理解への停滞につながっているのでしょう。
これは、共産党が唯物主義で精神的な伝統の否定を推し進める政策の団体なので当然のことではあります。
この思想は西洋諸国にも理解できるので、対等の国となるためにはどうしても必要だという判断があった。
裏を返すと、伝統的な物は近代以降の西洋的な思想では理解できないということが初めからわかっていた。
現代人の考え方では、例えばこんなことを言う。
「○○という武術はこんな技もあるしあんな戦法もある。知らなかったけど色々な種類のことを研究して取り入れているのですごい」
それがもう西洋的な考え方です。
正統の中国武術の考え方では逆です。
「あそこは沢山の物の中から選択して一つのことしかしない。だからすごい」
これは陰陽思想に由来しています。
陰と陽、つまり、無いことと在ることは対等の関係であって、何かが「無い」ということはそこに無という物が「ある」と考えます。
無いと言うことをただ無いというところで終わりだとは考えない。
なんでもかんでも足して増やしてゆく考え方は、むしろそこには必要な物が「無い」のではないかと考えます。
無と有の対等の調和、この陰陽の調和がとれているということがもっとも重要なことです。有るとか無いはその調和を構成する要素としてとらえます。
この考え方が分からないと、中国武術は理解できない。だから現代式のあれも足してこれも足してみたいな物をいい物だと考えてしまう。とんだ見当違いです。
武術においては有名な言葉で「百招よりも一招に通じるを怕れる」という表現がされます。
あれもこれもではなく、たった一つ。
中国文化全体にこれは観られることです。
なんでもかんでもマシマシにしてゆくのは、禅画や水墨画に「白黒でさみしーい」とか言ってポスターカラーを塗りたくったりラメをデコったりしてしまうような精神性の為すことに過ぎない。
本物の哲学精神がないと、中国武術の深みに触れることはもちろん、理解をすることさえできません。
本当のことを知るには、最低限の教養と誠実さが必要です。
学んでいない者には何も分からない。
そして、自分が分かっていないのだ、という「無」「虚」を自覚することからしか「有」は生まれない。