今回はまず、ヴェトナムに目を向けたいと思います。
19世紀末、フランスはカンボジアとヴェトナムの一部を一括して、インドシナという領地を作りました。
阮朝の皇帝はフランス討伐を命じましたが、敗北して捕らえられ、アルジェリアに飛ばされてしまいます。
ヴェトナム内では勤皇運動が盛んになりますが、彼らは権力争いに終始していた地方官吏などへの粛清が横行したため、かえって国内の政治機能が低下するという事態が発生しました。
中国でも同じく愛国者によって皇帝府が襲撃されるという義和団事件が起きた1900年頃から、漢訳された西洋の革命思想書や中国の変法思想の書が入ってきて、ヴェトナムの人々にも大きな影響を与えます。
これらの人々は、旅順における日露戦争での日本の活動に感銘を受けて、大挙して日本に留学に訪れます。
フランスは日仏協定に基づいて、これら革命思想者への弾圧を日本に要請します。
これによって、孫文と同じく日本においてアジアの革命運動活動の支度をするというヴェトナムの計画はとん挫します。
このフランス政府と同じやり方は他の列強も行う定番手法です。
植民地の人々に学問を与えず、彼らが同じ言葉で話して一定の論理だった行動が出来ないようにしておきたいわけです。
この無学政策への対処がイスラム教でした。
ムスリムであるということは、部族や居住区を越えてコンセンサスを持てるということです。
そしてまた、彼等にはメッカへの巡礼という権利がありました。
これによって、メッカにはインドネシアやマレーシア出身者の部落が出来ていました。
彼らはムスリムという共通点によって団結し、反キリスト教という題目の、民族解放運動を志しました。
現在に至るまでのジハード思想はここからスタートしていると言います。
この組織化と並んでもう一つ暗躍していたのが反清複明結社です。
これまでも書いてきたようにこの運動はアジア情勢全般に影響を及ぼして政局のバランスに干渉しようとしています。
これらの結社は反清複明の志さえあれば人種を問わず入会できたため、各国の革命主義者が集いました。
先に書いた孫文はこの直系の革命家で、彼の活動資金はこれらの場所の部族の人々からも出ていました。
一方、ジャワに植民地を持つオランダではウィルヘルミナ女王によって、イスラム教徒や民族主義者などはいまだ真の知に目覚めていない野蛮人であるために、キリスト教の布教により大きな力を入れて原住民を強化せよという「倫理政策」という物が振興されました。
このような環境の中で、ジャワ地方のイスラムの部族などは、キリスト教国に対抗している日本人のことをムスリムなのだと思っていたなどという話もあります。
この後、辛亥革命が成功して華僑勢力の及んでいる地域ではドミノ倒しに西洋列強への団結した抵抗が始まるかと思われたのですが、実際には華僑たちはこの段階で調子に乗り始めて現地人たちに支配者面をしだし、人心を失い始めます。
結果、イスラム教徒と華僑勢力の対立事件が相次ぐことになりました。
これを受けたオランダ政府は、そらみたことかとばかりにイスラム団体への締め付けを強めていくのでした。