1917年と言えば、ロシア革命の起きた年です。我々の時代はこれをおニャン子さんになぞらえて「イクイナ革命」と覚えた物です。
これによって、世界最初の社会主義国家が現れます。
きっかけとなったのは前の稿で書いた日露戦争です。日本との戦争を辞めるようにとデモ行進を行っていた人々が警官隊に銃撃を浴びたという事件で、これによって国内各地で反体制運動が広まりました。
その中で第一次世界大戦が起きました。
今年のヒット映画「ワンダー・ウーマン」では「半日で決着がつくいつものもめ事だと思っていたら世界中に広まってしまった戦争。そうなった原因は誰にも分からない」とされている戦争ですが、そのきっかけの経緯はこれまでに書いてきた東南アジアの歴史そのものです。
キリスト教へのイスラム勢力の打倒熱の高まり、アジア諸国の支配権をめぐるヨーロッパ間での権勢争い、華僑勢力の革命運動や日本のアジア解放運動などが入り混じってそれぞれがそれぞれの目的と誰かの目的阻止のための争いが始まって取り返しがつかなくなってしまったのです。
日露戦争下において、日本とイギリスはお互いを攻撃しないという同盟関係にありました。
その同盟の条約には、イギリスが二つ以上の国から攻撃されたら協力するという物がありました。
これは恐らくはそもそも、どこかの国が中国と手を組んで他の侵略国を追い払おうとしたらそれに抵抗するという意図があった物だったのでしょうが、ヨーロッパで大戦がはじまったときに日本が参戦するきっかけとなりました。
イギリスの敵対国にはドイツが含まれていたのですが、日本は西欧の本国ではなく、中国のドイツ軍駐屯地を奪いとり、そこに居座って中国への侵略をまっしぐらに開始します。
中国武術の歴史に名高く、映画などでもおなじみの抗日運動というのはここから始まります。
この戦乱の中でロシアの景気は悪化、さらに国力は低下、その機に主婦が暴動を起こしたことを引き金にロシアでは政府転覆が起き、皇帝が廃嫡されてソビエト政府が樹立します。
社会主義革命派、暫定政府、帝政復古主義者などの政争が展開した結果、10月革命として知られる政変によって、完全にソビエトの土台が固定されました。
この大戦によって、各国の植民地の人々は徴兵されて戦闘に参加させられます。
このやり方も傲慢極まりなく、戦地には送り込むのですが物資は与えないという物でした。
しかしこの結果、部族の人々は独自に戦力を現地調達するというノウハウを手に入れてゆきます。これは後の蜂起のおりに役立つことになります。
ソビエト共産党は各国の民族解放運動に共産主義によるバックアップを図ります。
これによってそれまでの民族解放運動団体は現地共産党となり、これまでのキリスト教圏VSイスラム教という戦いから、資本主義Vs共産主義の形にシフトしています。これは資本主義そのものが植民地政策による経済弱者からの搾取を前提に成立しているので、的を射た見解のように思います。
この中で、フィリピンでは共産主義による団結でアメリカの支配に反発する人々と、アメリカ支配を肯定する人々の間で大規模な闘争が開始されてゆきます。
これはつまり、アメリカ支配下で有利な生活を送っていたかつてのカティプナンのエリート層と、その下で労働者として搾取されていた層との対立でもあります。
これによって、かつては同じゲリラであったフィリピン人同士のあいだで今度はお互いに対してエスクリマの山刀が振るわれるようになりました。
マニラを舞台にしたこの都市戦で、10万人をこえる人々が死亡したとも言います。
かたやインドネシアではある人物の台頭があります。
その人の名をスカルノと言います。
タレントのデヴィ夫人さんの旦那です。
貴族の家に生まれて、バリ島のバラモンの家の母を持つスカルノは、その素性によってマルクス革命を慎重に扱います。
階級闘争にベクトルを持って行ってしまうと自分たちが脅かされます。彼はこれをうまく民族解放運動にのみ向けるようにしてゆきます。
また彼がヒンディーであり、ムスリムではなかったことも安易な宗教闘争に持ってゆかなかった冷静さに繋がっていったのではないかと思われます。
彼はオランダでの留学時代に、アジア出身の学生たちと反植民地運動に目覚めてゆきます。この団体は最初「インド協会」と称していました。これは当時の彼らにとっていまのインドネシア周辺がインド文化圏の南部であるという認識であったということが組み取れます。
これを彼らはのち「インドネシア協会」と改名します。
どうもこれまでは地理などの学問においては「インドネシア」という言葉は存在していたそうなのですが、国としての「インドネシア」と呼ぶ概念はなかったようなのです。
つまりこの、1920年代以前には「インドネシア武術」という概念そのものがないことになります。それまでの現地の武術はインド武術、ないし伝播してきた中国武術のどちらかであるということです。
スカルノは帰国後、各地方や民族、宗教を越えた総合概念としての「インドネシア」を普及させます。
ここで初めて「インドネシア」という国が設立され、国旗の設定などがされてゆきます。
このような前提の中で、日本が動き出します。
ヨーロッパが不安定になっているさまを窺っていた日本が足掛かりとして狙っていたのは、インドネシアの石油です。
これが西洋に入れば資本、近代兵器の燃料としても利は覆せないまでになり、逆に自分たちが手に入れれば地産資源の薄い日本では重大な物となります。
これまでも書いてきたように、インドネシア周りにはフランス領インドシナがありましたが、このフランス本国がナチによって支配され、ヴィシー政権になったことが侵略のきっかけとなりました。
この弱体化した処にまずタイが長年の圧力に対する反旗を翻します。
その闘争の調停をする形で日本はアジアに軍を進めてゆきます。
フィリピンでも同じことが起きます。
親アメリカ派と反米派の同国人闘争の調停に、アジア主義を看板とした日本が入り込んできます。
解放後の日本は新しい支配者としての態度を崩さない日本に対して、ここでも抗日運動が始まります。
当時セブからマニラに来ていたアントニオ・タタン・イラストリシモ先生の必殺の剣などは、ここでもだいぶ日本人の首をはねたといいます。
インドネシアでは、現地での闘争をするのに兵数の足りなかった日本人が、現地の青年たちへの調練を開始します。
この時、すでに衰退がはじまっていた現地武術を簡化して編纂して覚えやすい武術を作ります。
これを、プンチャック・シラットと言います。
一般にはインドネシア武術のシラットの再編成と言われがちですが、実のところインドネシアという概念はこの少し前に出来たばかりなので、実質ここがインド、中国武術からインドネシア武術が生まれた瞬間だと言ってもいいでしょう。
この時に訓練された青年兵たちの団結の結果、スカルノが新体制を発足しインドネシア独立を宣言します。
ここで「プンチャ・シラ」というという五つの基本理念を演説します。
これは民族主義、民主主義、国際主義、社会福祉、信仰を意味しています。
言葉も似ているプンチャック・シラットでも、五つの理念という物があって基礎コンセプトとなっているそうです。
この二つのかかわりについては、今後の識者の見解を待ちたいところです。