形意拳が、少林拳がコンパクト化されて内勁が見えなくなってゆく段階を取り出した拳法なのではないか、というのが、前回までに書いた私の見解です。
「一般に少林拳てのは大きくやってるけど、中身はこうなんですよ」と言った感じに思っています。
ただ、その中身の部分にも各派で差異があって、私の学んだ物は極端に見えない暗い勁の物でした。教えてくれた先生は中国大陸で良い武術を探していた時、難しい拳法として知られているというので学びに行ったのだそうです。
確かに、見えない物を学ぶのは果てしなく難しいことです。
そのためか、一般に行われている形意拳はかなり見えるようにしているようです。それが足を踏み鳴らしたり、前述した浮沈のように体をくねらせる動きに出ているように感じます。
しかし、私の学んだ派の掌門の先生曰く「上下は同一する」。上と下でずれがあってはいけないそうなのです。なので私もそのようにしています。
これは、形意拳の有名が訣である外三合の問題でもあります。手と足が同一であり、肘と膝が同一であり、肩甲骨と胯が同一する。
上下がずれるのは、手足と肘膝が着地点一致していても、最後がずれているということではないでしょうか。
前の二つは、少林拳でも習ったことがあります。となれば、最後の部分が実はすごく門派の核心的な部分なのではないかという気がします。
この最後の部分、肩甲骨と胯とは何かということですが、ご存知のように胯というのは腰骨、腸骨のことだと言われています。
手と足、肘と膝は分かりやすいですが、この肩甲骨と腸骨というマニアックな部分がフィーチャーされるのはなぜでしょうか?
それは、中身が丹田だからだと解釈しています。
腸骨の中には、いわゆる丹田、下丹田があります。肩甲骨の間には壇中、中丹田があります。肩甲骨と胯が合うとは、下丹田と中丹田が一致すると言う風に私は受けとりました。
こうなると、上下がずれるということはありません。
背骨をグネグネ振って振り撃つという南の浮沈的な使い方は、ここで否定されます。我が派では。
また、ある有名な自己流解釈でたくさんの門派のやり方を公表するので有名な先生は、形意拳はまず下半身で勁力を上に向け上半身でそれを下に落とすバレーボールのようなものだと書いていましたが、これも我が派では否定されます。そのようなラグを作らないからこそ、勁が見えないのです。
しかし、これらは完全に間違っていて、完全に否定するべきことでは決してありません。そのように解釈することもできるからです。
私が直接習っていた先生も「上半身が下半身に対してわずかに遅れる場合もあるがそれでも打てる」と言っていました。
しかし、これは決して上半身を鞭やブラックジャックのように振ることで威力を出すという意味ではありません。我々の勁では、うねったり溜めたりは決してしてはいけない。それは見えない暗い勁ではない。
下丹田と中丹田は、勁力でつなぎます。これを、私たちは後力と言います。こうして合一した体の力は足の裏に帰結するので、手で打つとしたら背中から足の裏までが一つに繋がっていることになるわけです。
なので、たしかに場合によっては、足の裏から掌までの連結が、移動して打つ場合には上下のラグが発生しうることもありえるわけです。まず足から移動して、手で的に触るわけですから。しかし、この際の上下のラグをきわめて小さくすることがすなわち整勁の強さになります。
そもそも、このわずかな遅れというのは、本当にミクロン単位の物で、目に見える揺動のようなものではありません。勁の動きというもの自体が、ほとんど目で見ては分からない、手で触れて確認してもらうようなものなので、ずれていると言っても外から分かるようなものではないのです。
とはいえ、実際には移動して的に近づいた段階でさらに距離の微調整のしなおしなどがあるので実際にはそれが動いているように見えてしまうんものなのでしょうが。
ある先生が「形意拳はハサミのように勁が働く」と言っていました。
聞きかじりなので正確に真意は受け取れていないかもしれませんが、これがおそらく、足の裏から背中の一致です。後力でそれを一本につなぐわけです。
そうすると、足が後ろに伸びるベクトルの力が働くのと、手が前に出る力が一つになります。水面から顔を出したワニが口を閉じるようなイメージです。これはハサミに似た動きともいえる気がします。イメージしずらい人は実際にハサミを目の前に立てて試してみてください。
この動きは確かに、動いている方のハサミのパーツに当たる手足だけを取って見ると、縦回転をしてると言えないこともないように思います。
形意拳のすべての動きの母体となるのは、劈拳だと言われています。上から下に打ちおろす動きです。ハサミの動きはまさにこれですね。これを内部消化して、横からやまっすぐの発勁に変化させます。
我々の勁は瞬発する力ではなく、動かないための力、定力です。この力ではなく、動く力で打とうとすると、ブラックジャックのような上半身の振り出しになるのではないでしょうか。これが、見えない形意拳と見える形意拳の差異であるように思います。
なので、膜を通る勁を根本にしているのか、いろいろな部分の力を合一して瞬発させたものを勁と呼んでいるかでスタイルが変わっているのではないかと現状みなしています。
ハサミのパーツで言うなら、動かない方と動く方のどちらをフィーチャーするかの違いです。
そしてこの違いは、広東南拳と福建南拳の違いでもあるようなのです。
体に勁力の鉄芯を通して使う鉄線功と、切れ味の脆勁の違いです。鉄線は動かないので見えない。
以前に、内家拳というのはもともと王征南という人の伝えた短橋短馬の福建系拳法だという説を書いたことがありました。
形意拳の形というのは、実はこの福建拳法によく似ているように思います。
五祖拳や白眉拳などはかなり形意拳ぽい。
こうなると、むしろ内家三拳と呼ばれる他の太極拳、八卦掌と、形意拳がまったく似ていないのに、なぜか内家に入っている理由がこの辺りにあるのではないかとさえ思えてきます。
かつて少林寺は、様々な地方の武術家を招き、拳法の研究をしていたといいます。王征南の南派内家拳から形意拳につながる何かの流れがあったとしても不思議はないのではないかと思っています。
我々蔡李佛拳の発勁の基礎となっているのは、陰陽長勁と言って、全身を陰陽マークのようにみなして使う発勁法です。まさに縦回転のように図形化されています。
おそらく、蔡李佛の動きを見てそれが縦回転だと言う人はいないでしょう。鉄線功の内勁で内側を通っている見えない勁だからです。
陰陽マークには、内側に陰陽を分ける波線が走っていますね。あれがハサミの部分。勁の通っているラインです。
蔡李佛の外形は陰陽マークの外側の円のラインがよく見えますが、実相はその内側の波線に集約されてゆくのです。
このような、南少林拳と内家拳の考察についてはあまり日本では目にしなかったような気がします。この辺りの部分は今後、我々が掘り下げてゆくべき部分なのでしょう。