勁を維持したまま套路を打つ、というのは失敗して当然の最初は難しい課題です。
だからこそそれを行うことで功夫が練られる。
しかし、それはあくまで肉体面でのことであって、実際は多くの人がまず打つと言う段階が出来ない。
きちんと要訣を守ろうとすると当然ですが意識が分散します。
我々の発想では集中ではなく拡散をよしとしているのでそれこそが求めるところなのですが、うちにくる人はほぼまず全員そうなると混乱してしまって自分がどこにいて何をしていいのかが分からなくなってしまいます。
そこに非常に重要なところがあります。
伝統の套路というのはただ技を繋いだコンビネーションではなく、それよりはるかに高い次元でよく出来ています。
そのよく練られた物を体感して吸収してゆくには、それまでの素人としての自分という殻を砕かないといけません。
赤ちゃんが覚えた立ちかたや歩き方の延長ではない、別次元の動きや感性を入れなおさないとならない。私はよくそういう言い方をします。
そしてその過程で、それまでに培ってきた自分の完成は戸惑って否定をします。
この、それまでに培ってきた、という赤ちゃんの時から積み重ねてきた自分の感覚をタオの思想では「識神」というのですが、これによる拘束を打ち破ることこそが高級武術や気功の目的です。
そうすることによってそうすることによって肉体に宿る本能的な感覚である「元神」が働きを増し、それを介して自然とのつながりが強化されて、その感覚を持って新たな識神と元神の調和を獲得し、天人合一、無為自然の安心立命という生き方をしてゆくことこそが大目的です。
そのためには、それまでの自分のエゴに囚われてはいけないのですが、えてしてみんなエゴに容易く邪魔されてしまいます。
ただ動けばよいところを、途中でやっぱり違うんじゃないかと迷って辞めてしまったり、間違えることを恐れて手を止めてしまったり。
これでは本末転倒です。
マークシートで言えばどれかに丸をつければ正解になるかもしれないところで、何度も立ち止まってやりなおしをして家に帰って参考書を見直さないと分からないと思いながら最後まで答案を埋められずに時間切れといったところです。
みんなこれをやる。
惑い、疑い、迷い、恐れ。この禁忌に皆さん引っかかります。
そして、それらに心をからめとられることなくそこをすんなりと抜けられれば功夫を練ったことになります。
足を止めていちいち泣きながら蹲ることはない。
しかし、それこそが識神から手を放すことの難しさなのです。
どうしてもみんな、既成概念にしがみついて居たくなります。
そうしてはいけないと挑もうとするほど力みが出る。心にも体にも。
その力みこそが詰まりであり、エゴです。
そこからエゴの支配がより力を強くして行きます。
手放してしまうこと。
それが学ぶことです。
自分を捨てて伝統と自然の働きに身を任せた時、身体は自己の力を離れて自然の力を宿します。
これが他力であり、中国武術が用いる力です。
自分の力、すなわち拙力を抜くところからこの道が始まります。