気功によって頭の法輪(チャクラ)が開いて活性化した状態になっているようですが、それに伴って背骨全般が敏感になっているような気もします。
医学的に言うと、脊椎のなかの神経が敏感になったことを、チャクラが開いたなどと表現しているのでしょうか。
こうなると確かにいろんなことへの感知力が上がるのでしょうから、気功の要点である本能の力の回復ということであると解釈して良いかもしれません。
本物の中国武術とは、そこまでの内容を含んでの中国武術です。
ただの軍隊格闘術や防身術とはそこで明確な一線を画します。
そしてこのような内功を含むからこそ、安易に心得の悪い人には譲ってはいけないところです。
我々の門派で言うならこれは禅の行の一つであり、一般に少林拳と呼ばれているのですが、その禅の修行の過程には魔境という状態があるので極めて注意しろと言われます。
また、もう一つ禅病という物もあります。
これらをわかりやすく一部を噛み砕いて表現するなら、魔境は統合失調や妄想狂、禅病というのはノイローゼだと言われています。
もちろん何の効果もないことをやっていれば悪影響もさほどは出ないのでしょうが、なまじそこそこ内側にアプローチできる内功をなまかじりで行うとそのような精神疾患を発症することが起きるようです。
確かに、神経が敏感になっている状態で自己暗示をかけようとしてしまえば妄想が膨らんでゆき、そのまま地から足が離れてしまえば完全に病気ということになるでしょう。
そのために、仏教系の気功にせよ道教系の物にせよ、かならず並行して座学を行わなければなりません。
何が正しいのかの知識を得ないままに身体だけいじくっているとそれはおかしくなります。
私が正統の伝と修練者の人となりにこだわるのはそのためです。
いい加減な物をきちんと出来ない人に与えてわざわざ人格を破滅させるようなことが出来る訳がない。
これは決して大げさなことではないのです。
中国武術の世界では極めて当たり前に起きていることで、系統のあいまいないい加減な技術を発表している自称先生方沢山が、狂気を発して早いうちに頭の病気で亡くなってきました。
それらの人たちに共通するのがオカルト好きと妄想癖、および情緒の不安定さです。
正統な門派では必ずそれらは禁忌だと初歩で習うはずなのにそのようになっているのは、きちんと習っていない人が行った結果なのだと容易に知ることが出来ます。
まっとうな中国武術とは人格の改善の道のはずなのですが、それをおろそかにして技だけをかすめ取ろうとすると狂ってしまうのです。
落ち着いた人格であるからこそ、危うい道を渡ることが出来る。
先日、留学生の方と稽古をしているとき、やはり脳を損なって変死した自称先生が狐狸精を憑りつかせて戦う方法を語っていたと聞きました。
狐狸精とはいわゆるこっくりさんのことです。
この方法は昔から中国では左道として行われており、半狂乱になって獣のような能力を引き出すものとされていました。
ある中国人の先生は、この霊はやはり頭に宿らせるのだと言います。
これは法輪を開いて自然と繋がる(自然を感じる力を活性化させる)のではなく、妄想をとっかかりに自分の中の狂ったイドを表層化させる物と解釈ができるのではないでしょうか。
そうなると文字通りの脊椎反射で戦うことになるのでしょうし、脳内物質の分泌によってショック状態を回避して本当に身体が動かなくなるまで闘争を行うことが可能になるのでしょう。
脳内には横行しているドラッグよりはるかに強い麻薬物質を精製する機能があると聞きます。
もちろんそのようなことを行えば、反動も大きく、健康は大いに損なわれますので長生きは難しいでしょう。
また、人格も不安定となり、一定の安定した心境を維持することは難しくなるのは間違いありません。
有名な多重人格者、ビリー・ミリガンの人格の内には「空手の達人」という設定のペルソナが居たそうですが、もちろん彼が正しく空手の歴史を語れたり型を打つことが出来た訳ではないでしょう。
あくまでミリガン被験者の中にあるイメージ上の「空手の達人」であって、つまりは素手で器物を叩き壊すというイメージがキャラクター化された物なのでしょう。
実際、この人格が出てくると彼は机や壁などを素手で叩き壊し、取り押さえようとした人にも怪力をふるって抵抗をしたそうです。
狐狸精を宿らせるという技法とはこのような物でしょう。
中国の歴史では白蓮教の乱や、義和団事件での拳教団がこれらを用いたことが知られていますし、フィリピン武術の歴史においてはモロやグルカ族という人々の傭兵たちが、銃で撃たれても決して倒れず特攻作戦を完遂したことで敵兵を恐れさせていた話が有名です。
フィリピン武術にはオラションという詠唱があり、それによって儀式を行って土着信仰にある精霊を宿らせていたと言うことなのでしょう。
フィリピンの精霊信仰ではそのようなシャーマニズムを用いて、心霊治療という物が行われていることが知られています。
このような傾向は同じスペイン領での反乱者たちによく見られた傾向で、西インド諸島ではこれらをボコールなどと呼び、ヴ―ドゥの霊を体に呼び入れるという伝承があります。
20世紀になり、バハドの時代を経てオラションの研究もだいぶされていたようですが、現在では効果が無いとされて行われないことが多いといいますが、その形式は現在でも伝わっています。
正統な武術においては、妄想も狂信も否定されてゆく傾向にあるようです。
しかし、中国武術未開の地である日本においては未だにしっかりとした先生が少なく、このような左道の物が極意なのだと誤解されていることが多いようです。
いまも教えているある先生は堂々と「自分に狂気を宿らせるのが稽古だ」と指導をしていたそうですし、自分でライターをしている自称先生は正統を学んだ中国の先生に偏差を看破されていました。
そのような無責任な指導者に人生を操られて心身をおかしくされてしまっては不幸以外の何物でもありません。
私は現在、太公望の小説を読んでいるのですが、その中にこのような一説がありました。兄弟のように育った少年、彪が道を踏み外してゆくのを望が案じるという場面です。
"彪は口では大きなことをいうが、じつは小心である。それも望にはわかっている。望とすれば、自分を空想している彪を真の彪に会わせてやりたいと考えていた。それを誰かがしないと、彪はついに自己を知らずに、自分という幻影のなかで死ぬことになる。
虚しい。
人にとって何が虚しいかといえば、そのことがもっとも虚しい。一生のうちな真実がひとつもなかったということである。彪の一生がそうであってもらいたくない。"