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中国武術の本質

 先日「かちこみ! ドラゴン・タイガー・ゲート」という香港映画のDVDを観ました。

 70年代から続く武侠マンガの実写化だそうで、この当時に流行していたワイヤー・アクションとCGの絶妙な活用によって現地の人々が思う功夫という物を、思う存分に描いた功夫電影でした。

 タイプで言うと「風雲」と同じジャンルの私の好きな作品です。

 この手の映画はお子様向けとみなされがちなのですが(実際に風雲は出演していた千葉ちゃんがそう明言)、そのとっつきやすそうなルックの下には強い思想が存在します。

 この作品では、最強の若手武術家でありながら江湖の義理から黒社会の若頭目に身を落としたドラゴンと、名門武館「龍虎門」の後継者であり正しい心を持ちながら自らの素性ゆえに葛藤するタイガーの義兄弟の姿が描かれるのですが、その二人の長きに渡る相克をかき混ぜる存在として風来坊の武術家、ターボが絡んできます。

 このターボ、ドラゴンやタイガーとは違った野良武術家の喧嘩功夫の遣い手のようなキャラクターで、顔についている傷を見せびらかしては武勇伝を吹聴し、得意兵器のヌンチャクを振り回してはやたらに挑戦をふっかけてゆくという存在です。

 この自由人のターボが、名を挙げようと龍虎門の代表であるタイガーの師父にも勝負を挑むのですが「君の得意兵器はヌンチャクか」と同じ土俵での対戦を選ばれ、そこに干してあった鼻緒を結んだサンダルを手に対応されます。

 そこはさすがに正統の武術家、タイガーはまったく歯が立たず、師匠にサンダルでほほをひっぱたかれて敗北します。

 さらに「基本が出来ていない。君はヌンチャクをまともに握ることも出来ていない」と一喝されます。

 この辺り、私がよく巷間の人々に「立つことも歩くことも、息をすることさえまともに出来ていない」と言って嫌われるところなのですが、実際に世間が当たり前に出来ていると思っているそこから作り直してゆくのが中国武術という物なので、そのように他が見えてしまうのはいたしかたないのです。

 逆に言えば、そういった生きる上での生理機能すべてを作り直すことができれば、それでもう中国武術は成功と言ってもいいと思います。

 功夫とはそういうことです。技の攻防云々といったレベルとはまったく違うことをしているのです。すなわち、生き方です。

 敗北したターボは後に師匠の元を訪れ、無礼に挑戦をした謝罪をします。

 そして彼は、顔の傷を見せびらかしたり創作した武勇伝を吹聴したり、ヌンチャクを振り回したりしていたのは自分がもともといじめられっ子で、弱い自分を隠して周りを脅かして優位に立ちたいからだったと告白します。

 その上で、これからは一から真面目に修行をします。もう人目を気にして偉ぶるようなことはしません。人に話をするときには、あなたにサンダルでほほを叩かれて目が覚めたことを誇りとして語ります。と言います。

 涙が出そうになりました。

 これは、喧嘩や護身術、格闘技のレベルしか目に入っていなかった青年が、生き方という武術の本質に目覚めるシーンなのです。

 これこそが伝統的な中国の武術という物の姿であり、その師父という物の姿です。

 喧嘩でも護身術でも格闘技でもない。

 圧倒的な自分自身の生き方の変化を常に意識して、心身を整えてゆくこと。

 正しく生きると言うことを伝えています。

 最近読んだ昔の中国武術雑誌でのインタビューでは、日本の有名武術家が中国のすごい老師と対談をしていました。

 日本の武術家は「あなたは気功をやるか?」と言うようなことを訊きます。

 気功と武術は不可分のものではない。そんな当たり前のことさえまだわかっていないのです。

 日本で教えられている中国武術には、その門に伝わる気功が教伝されていないような物がまだまだたくさんあります。この時代の名残なのでしょう。

 対談相手の中国の老師は、どんな質問をされても、気功で心身を修養するということしか答えません。武術をするのもそのためだと言います。

 日本の武術いえは、しかし武術には悪意を持って他人に挑むことも必要なのではないかというようなことを言います。

 老師は、そのような必要はない。仮に戦うにしても、そういう思いを持った段階でそれはもう良くない気が心身に入り込んでいるので間違っていると答えます。

 レベルが違いすぎる。

 本当の中国武術とはこういう物なのです。

 私の知っている実力の高い門派には必ず、その門の根幹となる思想があります。

 それが無いままただ技術だけをかすめ取ろうとしても、それはまず失敗します。

 なぜならその術が、いったいどこを土台に何をしようとしている物なのかが理解できないからです。

 自分のエゴがすべてだという取り組みかたでは、コンセプトのまったく違う思想体系の具体を行うことは出来ない。

 これが中国武術の理解が難しいとされるところです。

 立ち方、歩き方、息の仕方、物の考え方、生き方。すべてを作り直してゆくことが練功そのものとなります。

 それが出来なければ、すべては無駄になるでしょう。

 心身に異常をきたして、早くなくなった日本人師父は少なくありません。

 必要のない物を祀り上げたり粉飾したりすることなく、あるものをあるままに取り込むほかに、中国武術への取り組みかたはないものだと思っています。 

 勇気を出して自我を捨ててそれを為した結果、少なくとも私はここにいま立っています。


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