少し前まで、封神演義を洗いなおしたりしていましたが、そこから武術を語るとなると歴史の必然として孔子様にお話が向かわざるを得ません。
というのも、なぜか日本ではあまり一般的には知られていないことなのですが、孔子様の思想の祖は封神演義で易姓革命をなした周の文王の四男である周公旦に由来すると言われているからです。
周の国はその前の悪の王国と言われて語り継がれている商を倒して仁義を広めたと言われているくらい、文化的な改革のアイコンとなっています。
これは恐らく、商が初めて通貨と言う物を作って文字通りの商業を始めた国であることと、酒池肉林などの故事に残っているくらいのオカルト思想によって治世をなしていたために批判が高いからでしょう。
金銭、物欲主義とオカルト、私が普段からオタクやオカルト、スピリチュアルを人間の精神を病ませる悪だと危険視しているのも、結局はこの中国思想に由来するからかもしれません。
そのような商王朝に対して、周は礼と仁義と言う徳目での治世を目指しました。つまり神の支配から、徳治制への歴史的転換を為したわけです。
その徳治の思想を「礼学」としてまとめたのが周公旦です。彼は魯の国を治める魯公に封じられていましたが、孔子様が生まれたのがこの魯です。
孔子様はこの魯公を敬愛して、その思想を土台に儒教を創始しました。
ここまでは思想の転換のお話であって、全然武術じゃないじゃないかと思われるかもしれません。
が、孔子様、孔子六芸と言って六つの芸に秀でたと言われており、礼はそのうちの一つで他にも五つの物があります。
それが書、数学、音楽、そして弓と御です。
この御というのは聞きなれない言葉かもしれませんが、御者の御、すなわち戦車の操縦です。
礼だけ取ってみると孔子さまはひ弱な文士のような印象を持たれるかもしれませんが、実際は巨漢で数字にさとくしかもパリピで戦車を操りスナイパーでもあるというトンでもないバッドでマッチョなスーパー・ガイです。
特に孔子さまのいた古代の頃は戦乱が激しく、戦車は指揮官を乗せる物であり、これを操るのは信頼をされた地位の高い武将なのです。
このころの中国(紀元前役1100年から400年くらいまで)は、戦車での戦闘が合戦の中心であり、それだけ戦車を操る人間と言うのは珍重されたのです。
さらに、この戦車には左という弓を射る者も重要だとされていたので、孔子様はこの両者の術が行えることになります。
左と逆の右には戈(カ、ホコ)を持った者が乗っています。これが接近戦での要員です。
この、弓と戈が当時の主要兵器となります。
戈には援と言われる引っかける鉤がついており、戦車への攻撃に適していたようです。
この時代の戈の技術は、いわゆる中国武術歴史においては喪失しています。
これにはいくつか理由が考えられるのですが、一つにはまず、当時が青銅器時代だったことが大きいかと思われます。
鉄器が普及すると、より強力な兵器や装具が出てきたため、この形状よりももっとアップデートされたバージョンが造られたので無くなったということ。
そしてもう一つは、戦車戦その物の消滅です。
紀元前300年代に、中国文化全体に巨大なパラダイム・シフトが訪れました。それが、動きにくいそれまでの服を辞めて動きやすい胡服にしよう、というものです。
なぜこうなったのかというと、この辺りでどうやら鐙と鞍の普及が行われたらしく、これによって戦車を用いなくても騎乗で武器を振ったり弓を撃ったり(胡服騎射というそうです)することが出来るようになったためです。三人がかりの戦車よりも一騎の方が便利になった。一代の戦車よりも三騎の馬のほうが強くなったのですね。サンバイキルトです。
これいらい、騎馬と歩兵が主力となって戦争の構造そのものが大幅に変わってしまったのですね。
なにぶん中国は繰り返し馬賊の脅威にさらされているので、仮想敵の騎馬に対して有効に抵抗できなければ戦術として成立がしない。戦車戦は完全に時代遅れになってしまった。戈は扱いやすくて威力の高い槍にとって代わられたそうです。
そのためにこの時代の武術はまったく残らなくなってしまったのですが、面白いのはこの歴史的転換が有名武侠小説「水滸伝」に痕跡として残っていることです。
馬の群れをけしかける敵の奇兵に対して追い詰められた梁山泊軍が、馬の群れに対抗しうる兵器鉤鎌槍の術を継承している武術家を味方に引き入れる、というエピソードがあります。
この鉤鎌槍というのが槍の脇に引っかける鉤が付いたもので、用途として戦車戦の時代の戈を引き継いだものとなっています。
失われた技術が常識外れの追わぬ奇策に対する秘伝として機能した、というエピソードですね。
そんな古代戦車戦の時代から伝わっている兵器が剣です。
意外なことに、刀よりも剣の方が歴史的には古い物なのだそうです。
これは製造技術として剣の方が作りが簡単らしく、鉄棒を平たく打ち延ばすと作りことが出来たから、だそうです。
この時代の刀というのは料理などに使う小さなものだそうで、これを剣と同じ大きさにするにはのちの技術を待たなければならなかったそうで。
中国武術の世界では棍、刀、槍、剣をして四大兵器と呼んでおり、その中では槍が兵器の王と呼ばれてもっとも実力が高いとされています。
剣は君子の兵器と呼ばれてもっとも精神性が高いとされています。
これは官職の証とされていて、一般兵や賊が持てなかったからかと思っていたのですが、実は君子こと孔子さまの時代には剣しかなかったから、というのが実際のところだったということが分かってきました。
ちなみに、棍というのは本来ただの棒のことではなくて、棒に金属のわっかを嵌めた兵器のことで、やはりこの時代にはまだありません。
タオの武術や仏教の武術はあっても儒教の武術はあまり聞かず、それどころか思想武術の批判対象として儒教はあげられがちなのですが、それもこのようなところが少しかすっていたのではないかと思われた反面、君子への尊重としては剣を設定しているとも取れる興味深いところです。