いとうせいこうさんという方がいらっしゃいます。
十大の頃に影響を受けた方で、日本HIPHOP初期のアルバム「ボディ・ブロー」はいまも大切に聴いています。
これだけ日本のラップ業界が右に左に曲がりくねって歩んで来た今でも、あそこにあるHIPHOPの精神のような物は不変に受け継がれていると感じることが多いです。♪見ろよ俺のマイク 細工なんてない どんなバイクよりでっかいぶっといBIG!
小説「ノーライフ・キング」も何度か読み返しました。ただこちらは今一つ意味がつかめなかったのですが、いとうさんの存在自体は強く印象に残り、あのころから今ににたるまで、いつも面白いことをしているいと、という認識でいます。
そのせいこうさん、近年は国境なき医師団と行動を共にするという活動をされているのだと聞きました。
https://news.yahoo.co.jp/byline/itoseiko/20160420-00056793/
国境無き医師団の活動をしてゆくには、当然ですが医師以外にも沢山の人の力が必要で、開拓要員、水道要員、生活環境の保持要員や食料の調達、それらすべての経理を担当する人など、一つのインフラを完全に成り立たせるためのおよそ世間のほとんどの人の力が求められるということのようでした。
そういった環境に身を置くことによって、いとうさんは人はなにがしかの貢献をしたいという欲求を持っている物なのだと感じたそうです。
中には、助けられている側の難民の人たちが、助ける側に力を貸してゆくこともあるそうでした。
それを見ているうちに、そういった欲求をはく奪することこそが人間の尊厳を奪うということであり、暴力の本質なのではないかと思われるようになったそうです。
人が生まれ持っている善への欲求。それを叶わないようにしてしまうということは、おそらくは大きな罪なのでしょう。
間違った教育を人に施すこと。
誤った方向に人の善意を導くこと。
間違っているとうすうす感じている周囲のムーブメントにそのまま乗っかってしまうということ。
それらはみな、暴力であると私は感じます。
わかりやすい形として「いじめ」「パワハラ」「ブラック企業」などが言葉として挙げられますが、その形に至る前の段階ですでに暴力は働いている物だと思われます。
このような見解に対しては「そんなに目くじらたてるなよ」「みんなやってることじゃないか」というようなスタンスの人も多いことでしょう
しかし、そのようなことに自覚的になって自分を振り返ることにこそ、武術と言う物の真価があるのでしょう。
私は一貫して中国武術は修身の行であるという古典の在り方に立ってきましたが、多くある禅の行の中でも、武力と言う直接的な暴力とじかに向き合うというこの行の特徴は、そこにこそ強く現れると思います。
暴力への愛好からの関心や、その暴力への忌避意識からくる護身術への執着と言った物を離れて、自らのうちに存在する容易に他人を傷つけうる力を通して己が容易くおかしうる罪に深く注意を喚起することが武術という禅には可能です。
そこに至ってからこそが、より濃厚にこの学問に取り組むことが出来うるのだと私は考えています。