いろんなことの専門家の話を聞くのが好きなのですが、半年くらい前に聴いた香道の先生に限ってはちょっと聞くのが苦痛だった。
紹介素材を流した段階で司会の人が「ちょっと、こういう話し方をする方がくるとは思ってなかったので……」と言葉に詰まったくらい、下品な話し方の人でした。
その下品さと言うのがひどく嫌味な感じで卑しい方向に気取っていて、フランス帰りか何からしい(日本人)とってつけたようなフランス語風の鼻にかかった日本語で話す上に、口の中で液体がぺちゃくちゃ言うような発声法で、ちょっと仕事で人前で話すような人ではなかった。
そこで気が付いたのですが、人前で話す人っていうのはやっぱりすごいんですよね。
特別面白いようなことを言っていなくても、ただ明瞭に聞き取れる言葉をほどよい音量で適切に話せるということ自体が実はものすごい専門技術なのですよ。
そういうのがプロの腕前なのだと痛感させられました。
くだんの香道の先生のお話は、どうかするとすぐに「女でフランスに行ったのは私だけ」「現地では誰だあの女はと一目置かれていた」と自分の話によっていきます。
こういうのを未熟な自我の垂れ流しと言って、文章を書く時に最初に注意されることです。
みんなは香道という学問に関して興味があって話を聞いてるのに、すぐに如何に自分がすごいかという売り込みにずれ込んでゆく卑しさは、明確に未熟な自我であると言って差し支えないでしょう。
香道という非常に面白そうな素材を扱っているのに、自分以外には誰にも興味のないこの地球上にいるすべての人間と等価な一人の人の話を聞かされてしまったのは非常に残念なことですが、そのように非常にフィジカルなセンスを獲得している人にも会話や音という他の部門においては見苦しい感性を出してしまうことがあるということは勉強になりました。
とはいえ、たいていの場合はプロフェッショナルの話は面白いです。
自分が見たこともないようなネジを作るベテランの職人さんの話などを聴いても、たいていの場合非常に面白い。
また、私はここでも何度も書いているようにように近代日本の軍隊的教育を非常に嫌悪しており、その象徴である野球を非常に白眼視しているのですが、引退した野球選手の話などを聴くと大変に面白い。
本気で生きている人たちの、すごい世界の面白さは普遍的にそこにもあります。驚かされたり、感動させられてりして、とても精神の滋養になります。
先日、平素よく聴いているラジオショーのアシスタントが新年度で交代しました。
今期からのアシスタントのお嬢さんはグラビアモデルをしてる方で、オタクであるというのが売りであったのですが、彼女の話が大変に苦痛で残念ですが最後まで番組を聴くことが出来ませんでした。
それは、彼女を使う体制が行き届いてなかったという番組の構成に原因があるところが大きいと思うのですが、もう一つは彼女がオタクであるということの本質に関わるところがあるように思いました
オタクのアシスタントを迎えたということで、メインパーソナリティの方とそれぞれフェイバリットなマンガを紹介し合うという彼女の特性を活かすことの出来そうな企画がったのですが、それが非常に詰まらなかったのです。
まず先に彼女が自分の選んだマンガを紹介したのですが、それがまぁオタク丸出しで登場する何くんが素敵だというような情緒的な話ばかりで、知らない人には伝わらない。
具体性と分析からの論としての面が弱いと、それはその作品を語っているのではなくてその作品を好きな自分の未熟な自我を垂れ流しているだけになってしまう。
だからお話を聞いても、そのマンガを読みたいと言う気持ちに全然繋がらなかった。
対して、メインパーソナリティのピッピさん(通称)が選んだのは横山光輝先生の「三国志」。言わずと知れた名作です。
言わずと知れた名作なのですがなんとオタクの彼女、知らないと言います。
こういうところです。
オタクだと言いながら、漫画界の名作をまったく抑えていない。
専門性が非常に薄い。
三国志と史記の区別もついていませんでした。
「それって秦とか出てきますか?」と言っていましたが、おそらくはそれもキングダム辺りからの聞きかじり(?)でしょう。
自分が生きている場所や時代の座標と土台をまったく掴まずにただフワフワと漂いながら、その時に流行している物をミーハーに消費しているだけです。
日本のオタクって結局のところ、海外のオタクが日本語を学んで輸入物のソフトを入手して楽しんでは現地に行くと言うようなことをしているのと比べて、圧倒的に努力をしない。
ただお金をだしてジャンクフードを摘まむように消費するだけで、そこから何かを派生させたりそれを掘り下げて学んで行ったりと言うことに関して非常に薄い傾向が強いと思います。
それこそが日本のオタクの人の本質で、要約するなら「好きな物でプロにならない人」ということなのだと思うのです。
音楽が好きならミュージシャンに、ファッションが好きならショップ店員にと嗜好と生き方が繋がるということが多いと思うのですが、オタクの人がマンガ家さんなどのプロになる傾向は非常に薄い。
その代わり、真似事のごっこ遊びを浅瀬でチャプチャプして消費する傾向が大変に強いと感じるのです。
つまり、在り方そのものが「未熟な自我の垂れ流し」をエンターテインメントとする側面がとても強いように思う。
それはね、我々にとっては非常に慎むべきことなのです。
我々は法や道という物によって生きるために自我を薄めるためのことを行っているので、何物にもならずにただ浅瀬でごっこ遊びをし続けながら50、60になりたいという選択とは非常に相性が悪い。
プロフェッショナルになっている好事家のことを、私はオタクとは呼びません(デル・トロ監督とか?)。対象を愛してやまず、そのために自分を捧げる人は我々と通じるところが非常に大きい。
他の人が作った偉大な物を自分のエゴによせて自我を肥大させるために利用するだけの生き方はそれとは真逆のように思います。
だから我々は、伝統として伝わってきている思想や術を捻じ曲げたりはしない。
それよりも自分のエゴを捨てて正しく伝わってきている物の方にこちらが寄せてゆく。
私には、そちらの方が大きくて自由な生き方であるように思われます。
我欲に囚われ、振り回されている生き方は、ちっとも良いとは思えません。
先日もオタクの人たちが切腹まがいのパフォーマンスやストーカーをしたりというゴシップが世間をにぎわせましたが、さもありなんという感じを受けました。
ある友人が見せてくれたのですが、海外ではいま「地球とセックスをする」という人たちがいるそうです。
まぁそれが、自生している植物で自慰をしたり海と結婚式を挙げたりと言った有様で、つまりは強烈に旧来の価値観に囚われている人がその基準の中で落ちこぼれたけど自分の価値観を持つことも出来ずに変なことになってしまった挙句、自然をエゴのために利用して自分とセックスをしているだけに見えました。
キリスト教圏には昔から、悪魔崇拝という物がありますが、これが乱交をしたり手づかみでご飯を食べたりということをしながら自分は自由だと主張するという非常に情けない物で、そういうことすると私生児が出来たり手が汚れたりして非常に不便だからみんなやらないんだよ、ということをわざわざするだけで何者かになったような気持ちを味わうという極めてしょぼっちい物であるように思います。
私は昔っから貧乏くさくて見てらんない。
そういう、自分の中に根付いてるちっぽけな価値観と勝手に戦って一人でシャドーボクシングをして自分の中だけでチャンピオンベルトを巻いた気分になるという、 客観的に言うと何ひとつしてない人であるというのは、あまり望ましい生き方ではない……。
ストーカーで捕まったタクシーの運転手さん、もう50くらいで、職場では「オタクっぽいけどいい奴」って言われていたそうな。
他人からはその人の人生なんてどうでもいいからそれはいい奴って言えるけど、まぁ全然いい生き方をしている50男児では無かったのではないかなあ。
いい生き方、した方がいいと思いますよ私は。せっかくだから。
五年後、十年後の自分、ちゃんといい生き方してる自分だと思えますか?
その基準は、いまいい生き方が出来てるかどうかではないかなあ。