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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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宗教と哲学とデッドプール

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 先日、宗教と哲学は同じ問いに対する角度の違いなので代替が可能であるということを書きました。

 ただ、これは決して勘違いしてはいけないのは、ならば哲学の方が宗教より偉いというようなことです。

 これは決してそういうことではない。

 中国では陰陽思想に基づいて、宗教である儒教と哲学であるタオが両輪となってバランスを取ってきたように、これはやはり拮抗する物として人の中に在り続ける物であるのではないかと思うのです。

 先日、大好きなアメコミ映画の最新作「デッドプール2」を観ました。

 マーベル映画の本編がMCU、もう一つの看板がX-MENだとしたら、その間を繋ぐブラック・コメディ作品です。

 この作品では今回、主人公の怪人デッドプールという狂人が、正義のヒーローを目指してスラップステッな活劇を繰り広げます。

 妄想と現実の区別がつかなくなっている彼が、心の中にある超自我(スーパー・エゴ。エゴを越えた存在)に認められて自分の想像の中の天国に受け入れられたいと自分がイメージする「善き人」になろうとドタバタするのですが、その善き人のイメージと言うのが面白いのです。

 善き人を目指すとは言えもともとはみ出し者の狂人、相変わらずコカインを大量に吸引するし平気で人を虐殺します。

 そんな彼の思う善のイメージは「差別をしないヒト」という物であるようなので、それを目指しながらX-MENに対して「60年代の人種差別の象徴的なキャラクターだ」などと呟いたりします。

 つまり、このところ続いている60年代アメリカの公民権運動を描いた映画「デトロイト」「ドリーム」「シェイプ・オブ・ウォーター」や「ブラック・パンサー」などの流れに位置する映画となっています。

 もちろんコメディというのは水物の要素があるので、時事ネタに乗るのは当たり前ではあるのですが、X-MENの主要キャラクターでデッド・プールがライバル視しているウルヴァリンを演じたヒュー・ジャックマンが主演の「グレイテスト・ショーマン」もまた同じモチーフを扱っていることを考えると非常に味わい深い物があります。

 このような急速な北米での人権運動の活性化は、トランプ政権への反動であると考えられます。

 この辺りが非常に陰陽思想的なところなのですが、そもそもがまさか成立すまいと思っていたトランプ政権の熱狂的な樹立は、オバマ大統領時代の反動だと言われています。

 初の黒人大統領が現れ、次は女性大統領かと時代の流れを多くの人が感じた中で、それに抵抗を感じる人たちの力が強まって保守派のトランプ支持層が強固な物となったという訳です。

 急進派への反動なのですが、この層が分布している地帯を通称「バイブル・ベルト」と言います。

 合衆国のいわゆる南部の辺りで「風と共に去りぬ」で描かれた階級主義の強い土地柄で、南北戦争では奴隷解放に反対して戦ったという地域です。

 南軍を意味する「レブル」という言葉はいまだにトランプ支持層に対しても使われることがあります。

 トランプ大統領がマニフェストで話題にした、メキシコ国境に巨大なバリケードを建てるというのもこの南部の人たちには非常に生活に密着したものであることは想像に難くありませんね。かなり強力に南部人の支持を意識して彼はパフォーマンスをしています。

 自由主義の革新派が強まれば今度はそれに抑圧感を感じていた保守派が強まり、そうなると今度は革新派の運動が強くなる。

 デッド・プールは女性差別やLGBT差別に反対し、起きてもいない黒人差別を強く糾弾したりするのですが、そこはデッド・プール、それがどこまで本気でどこまでジョークなのかは測りがたいところがあります。

 今回のヒロインとなるミュータントのキャラクターが、黒人種でユニーク・フェイスであるところなどからも、ある程度本気であるのではないかとも思えるのですが。

 上に挙げた映画「シェイプ・オブ・ウォーター」をとデッド・プールはほとんど共通の構造を持っています。

 障碍者の主人公が、国によって拘束されたミュータントを救出する話であり、主人公を手助けするのは黒人女性と同性愛者とソビエト人です。

 露骨なまでに、バイブル・ベルトの保守派によって弾圧される人々が描かれています。

 ここで取り上げたいのは、宗教と哲学の相反する部分です。

 バイブル・ベルトの保守層は、敬虔なキリスト教徒です。

 それがために、武装して銃を持ち歩くことを好み、有色人種差別と言った思想を持ちます。

 彼らの宗教間では、白人種は最も神に近い人種であり、他の人種を導いて宗教的闘争を推進する神の軍勢であるとされているからです。

 このような考え方は、哲学的な視点からすると非常に馬鹿げた物であり、間違っていてかつ危険であるように見えます。

 しかし、世界の多くの宗教における性差別や階級主義などは、みな宗教に裏打ちされています。

 そしてそれらは、なお、決して平等に事実を観ようと言う哲学の視点と較べて、劣っていると決めつけることは出来ないのです。

 私は個人としては性差別にも人種差別にも階級差別にも反対です。

 ですが、伝統宗教の価値観を否定することは出来ない。

 それは他者の持つ信念であり、人には信念を持つ自由があるべきだからです。

 そのことに対して自分の倫理で裁くのは間違った行為です。

 彼等には彼らの宗教における倫理感がある。

 倫理が無いことと、違う価値観の倫理を持っていることはまったく別です。

 この辺りを履き違えると、そこから本物の野蛮な人間になります。そしてこの意味での野蛮とは愚かで邪であるということです。

 倫理の違いを認めて埋めて行こうとすることでしか、対話というのは無しえない。

 ここが非常に難しいことであり、だからこそ勇気と誠実さ、そして智という物が必要になるところです。

 そして、智という物が及ばない人間において倫理と信念になりうるのが、宗教であることを考えると、本当に立脚点を確立するのが難しいことになります。

 我々の行っている、思想としての武術とはあくまで哲学行為です。

 ですから智の及ばない人にはどうしても手渡しがたいところがあります。

 ならば一体、いかにして世により良いことが出来るようにするか?

 この問題に対して、ただ信じることではなくて、ひたすら具体的な答えを求めて苦しみ、考え続けることこそが哲学には欠かせないことなのでしょう。


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