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功夫静脈瘤 タオ編

 先の稿では静脈瘤と禅について述べましたが、今度は我々のもう一つの思想的支柱、老荘思想からこれを見てみましょうか。

「気」という物はこの老荘の思想、タオイズムの思想において重要な物です。

 人体と言うのは、気、血、水が働いて活動を可能としていると考えられています。

 私のいまの右足の状態は、リンパ浮腫でむくんでいるということなのですが、これを東洋医学の気の観点で見ると、気血水のバランスが崩れたものであると言えます。

 すなわち、生命活動を運用する気が一部に過剰になり、結果、血管を走る血の分離(文明)が起きてしまい、水が管の外に出てしまったということです。

 いくつもある人体の中での気の働きの中に、身体の運営をつかさどる営気という物があり、その中には固摂作用という物があります。

 これは、細胞の中に液体成分を止めておく力のことを言うのですが、私はこれが非常に弱い。春先には鼻血が出たり、疲労するとおかしな汗が出たりするのが止まりません。そういう気質なのです。 

 この血液から水分が分離して漏れ出すというのもその一端なのでしょう。

 この、気の過剰による血と水の分離を収めれば、元の状態に戻る訳です。

 このままで行くと、分離した血が水による陰陽の調和を失って陽側に濃くなってしまう。

 そこから陽の血の塊である血塊が出来てしまいます。

 これが本来陰の血が通る静脈を通ると、肺(肺臓)の血管を通ることが出来ずに引っかかってしまって血栓となり、気(この場合は文字通りの空気のほうの気)の運行を妨げてしまいます。

 そうなると当然、呼吸が出来なくなってしまってそのまま酸欠で死亡となります。 

 これがいまの私の状態であり、整形外科の先生が「苦しくなったらすぐ救急車呼んで」と言った原因です。

 はたして呼吸が出来なくなってから救急車が来るまで間に合うのかどうか。

 そこも含めて血管医の先生の言った「これ、血塊出来たら死ぬよ」なのでしょう。

 次の予約日まで血塊が出来なかったら生き残って、出来たら突然地上で窒息死ということです。

 すでにあからさまにまともに歩けない状態なので、職場の上司に異常を気づかれたためにこれらの事情を話したところ、手術まで休む? と訊かれました。

 普通は誰かと一緒に過ごしたり、行きたいところに行ったりするものなのでしょう。

 しかし私にはそのどちらもないし、別に食べたい物もしたいこともない。

 辞めていたラーメンを食べようとも思わないし、一年以上飲んでないアルコールを摂ろうとも思わない。

 誰かとセックスをしようともしないし、ギャンブルにつぎ込もうともしないし、太陽が海に沈むところを見に行こうとも思わない。

 それは、常日頃から自分が本当にいいと思うことをよく考えて、良いと思ったら行ってきたからです。

 いまさら慌ててあれをすればよかったこれをしていないというようなことはありません。

 いまの自分の毎日の暮らしそのものが、私がそうしたいと思って選んだことです。

 朝は早めに起きて、一日空の下で働き、気功や稽古を行い、夜は早めに眠ると言うそれだけの生活です。

 その平凡なことの繰り返しが、私が望んだ日々です。

 薄っぺらなスピリチュアルなどが、死ぬ前にやっておきたいリストが云々などと言うようなことを言いますが、そのような腰の浮いた生き方が欠片も自分の中になかったことをとてもうれしく思います。

 すべて、責任と覚悟の元に選択してこれていた。

 これが、自由です。

 このように生きることが出来るようになったのは、やはり功夫と出会い、師父から教えをもらい、自己を見つめてきたからでしょう。

 荘子の中には、いまの私のように身体が変形しはじめた病人の話が良く出てきます。

 彼等は家族や友人が嘆いても「これは天の力が働いて行っていることだ。天の行うことには間違いはない」と超然としています。

 そのような生き方の人を、道の分かった賢人だとして描いています。

 ゆっくりとした静かな暮らしを、私は引き続き満足して送っています。

 こういうことが感じられるから、私にはカンフーというものは高い価値がある。


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