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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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崇高と美

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 ショーペンハウエル先生曰く、人は芸術や自然の美に打たれた時、もっとも存在の本質への認識に近づけるそうです。

 しかし、実際には多くの人にとってその時間は極めて短い。

 また、自分が感じたものが何なのかを認識する能力はほとんどの人には存在していないそうです。

 以前、なぜほとんどの人間は人間の言葉が通じないのか、ということを哲学の不在の可能性があると書きましたが、その原因がここにあったようです。

 エゴの視点を離れて現実に存在している物を純粋に認識することは、ほとんどの人間には不可能なので、実際に目の前にある物についての言葉や文章を認識することが出来ないのではないでしょうか。

 現実の存在を自分自身の感性で認識するとっかかりには美と崇高感があるそうで、そういう感性が無いと直接は認識できない。

 その感覚が無い人間は、ある人間が咀嚼した表現によって1クッション挟んでからその感覚を知り、それをパッチワークのようにつなぎ合わせて自分の人生とか世界とかはこのような物であろう、という風に感じながら生きている。

 これではね、現実に生きていると言うのは少し難しい部分が出てきます。

 ただ、ほとんどの人間にはそれが不可能なのだというならそれを言っても仕方ない。

 とはいえ、これは学習することが可能だといいます。そこから人文主義につながってゆくのでしょう。教育や学問によって人は生きると言うことを良い物にすることが出来る、という考え方です。

 ただ、そこに真実を表象からくみ取るという能力を養う物が無ければ、やはりただのパッチワークの寄せ集めの数を増やすだけのことに留まるでしょう。

 そこから、教育と倫理の乖離が生まれてきます。

 もし、自然の法則をきちんと受け止める感性が育まれれば、そこには社会的な物ではないタオで言う徳のような、自然に基づいた倫理が入ってくるはずだと思うのです。

 そのようなタオの徳を道徳といいますが、これは英語で言うモラルの訳語として当てられていますよね。

 やはり現実的には難しいかもしれませんが、一見同じようなことをやっているようでも、格闘技なのかフィットネスなのか、コスプレ趣味なのかということと、禅の瞑想であり人生を育むための学問として取り組めているということは、まるで意味が変わりますよね。

 伝統的な本物のカンフーというのは、そこまで見て接しないと一番重要なところが取りこぼされてしまう。

 


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