前の記事の捕捉をしましょう。
現実が何かを認識する能力と他人の感性のつぎはぎの具体的な例を挙げたいと思います。
例えば「ムカつく」という言葉を口にした時、あるいは「癒される」でもいいです。
腹の立つこと、精神的なささくれがなだめられるようなことなどを、それらの言葉で表現したとします。
その時に、ただ語彙が貧弱なだけで「ムカつくー」「癒されるー」ならそれはそれで良いのでしょう。
ただ実際、ムカついたり癒されたりする程度の感性の人というのは本当にムカついているし癒されているのです。
その範疇を出る部分の現実を、取りこぼしてしまっている。
ムカつくではなくて他のいろいろな感情や機微があっても、それらをただ「ムカつく」の枠のなかだけで受け止める。
そしてそれを元手に自分の内面を形成してしまう。
もともと「微妙」という言葉があったのを理解していて拒絶の意図の表現として「微妙なところですね……」などと言う使い方をする人の心の中には、それこそ微妙なアヤがあることでしょう。
ホントはNOって言いたいんだけどそうすると感じ悪いし相手を傷つけるかもしれないから言葉としては間違ってるけどうこういう使い方をすることでわかってもらえてこの場をどうにか丸く納められないかなあ、とか思うでしょう。
でも、初めから「びみょー」って言葉を覚えてしまった人は口に出して人に「びみょー」というときに「びみょー」と心の中でも思っていることでしょう。
これが他人の感性による他人の作った言葉以上の感性を持てなくなってしまう状態です。貧相な言葉は貧相な心と繋がっている。そういったムカつくや萌えやイケてるやインスタ映えするをつなぎ合わせて心が出来ている。ハッシュタグで出来ているような物でしょう。
その意味で、オタクとインスタ女子というのが実は共通の構造で出来ているということが言えると思います。どちらもありものの選択でしか形成されていない。
その延長に「空気読め」や「みんながそうだから」があり、ブラック企業や忖度と言ったこの国の仕組みがあるとうかがうのは大きく外れていないのではないでしょうか。
自分の言葉を持ち合わせないというのは、自分の心や自分の本当の生を持ち合わせないということに等しいのではないかと思う部分が私にはあります。
ただありもの形式をなぞって終わる。そのようなことを構造主義と言いますが、それはもちろん悪いことではありません。
現代社会においてはお約束で人心も世の中の仕組みも成り立っています。そこからはみ出るオリジナルの存在であるということが生きづらいものであるになるというだけのことです。
本当は生きづらい人というのは、自由に生きることが出来るはずの人かもしれない。
自分の言葉で語られるべき自分の心を持っているから、ありものの器に盛ることが難しいということなのかもしれない。
だとしたら、他の人が作った物に当てはまらない自分であるということはそんなに悪いことでしょうか?
私はそうは思わない。
我々がしていることというのは、そのような人々に自由な生き方の土台を手渡すと言うことです。