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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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吾が見たるフィリピン武術博物記 3

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 博物館より歩いて行けるところに在るのが、ルネタ公園です。

 マニラのエスクリマの聖地とされていて、高名なマスタル達が週末に練習をしていることで知られています。

 そのルネタ公園と隣接しているのが、世界遺産となっているイントラムロスという地域です。

 16世紀のスペイン人居住区で、当時の西洋の城塞都市の様式となっております。

 元々はムスリム支配時代のイスラム教徒地区で、アジアにおける貿易拠点だったそうです。

 そこにメキシコからやってきたスペイン人たちが現れ、交戦の末ここを勝ち取り、城塞を建造しました。

 

 外に向けて沢山の大砲が設置されています。

 内部には当時の教会がいくつもあります。

  

 ここが戦う布教集団であったカトリックのアジア最前線基地であったのです。

 この街の民芸品店には、昔の剣を模した模造品が売っていました。

  

 


吾が見たるフィリピン武術博物記 4

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 イントラムロスのすぐ外にある、三階建てくらいの高さのレリーフです。

 剣を持った革命の闘士が最上部に描かれています。

 スペインの統治を脱する切っ掛けの一つがフィリピン革命です。マニラが首都であるというのは、革命の地であるということもあります。

 イントラムロスから車で一時間ほどのところが私の滞在していたケソン市なのですが、そこの地下通路にはこのような物が描かれています。

 

 フィリピン革命のリーダーであった、アンドレス・ボニフォシオです。

 彼もまた、刀を握っています。

 この写真の並びには、左手に拳銃、右手に刀を握った写真なども飾られていました。

 そのケソン市の中心にあるのが、ケソン・サークルです。広い公園を中心に、シャン・ゼ・リゼ状に都市が形成されています。

 公園の中心、街の中心にあるのがケソン・タワーという、革命家マニュエル・ケソンの記念塔です。

 

 夜になるとライトアップされます。

 塔の最上部には天使の像があります。

 ここに祀られている革命家、マニュエル・ケソンがスペインからの独立に尽力し、フィリピン自治法を調印に持って行った人物です。

 

 この塔の下部には、素朴な島民として暮らしていたマニラ人の元にスペイン人がやってきて抗争となり、不平等条約を結ばれた歴史のレリーフがあります。

 ここまでの写真をご覧になって分かるように、実にマニラの町には刀や剣と言った物の歴史が描かれているのです。

 

 スペイン人はそれまで部族の上に居たムスリムを打倒したという政治的な軍記が見られます。

 そのスペイン人からの革命運動の時代のパートになると描かれるのが、先に述べたボニフォシオです。

 革命の成功を描く図。おそらく中央で書類作成をしている人物がマニュエル・ケソン。

 革命の闘士には女性も居たようです。

 フィリピンにはスペインに代わるアメリカの統治時代が訪れ、アメリカからの独立を目指して日本と手を組もうと言う反米派と、親米派による巨大な内戦が行われます。

 さらには日本支配下でも抗日運動は続きました。

 これらの長きにわたって繰り返されるゲリラ活動の間、エスクリマは革命闘士の武術として調練に用いられてきたのはご覧の通りです。

 それぞれの時代ごとに、イスラムの刀術やスペインの剣術、中国武術を取り入れてカウンター兵器として発展してきました。

 この間、政治の中心ではないセブでは相変わらず荒くれ剣士たちが個人単位で決闘をしたり仲間割れで喧嘩をしたりしていて、バハド(デスマッチ)用の技術を発展させていました。

 これまではそのバハド用の技術という面がセブ発信で強調されていましたが、マニラのエスクリマ、アルニスには革命闘争の武術という土台があったことが、今回のフィールド・ワークで強く感じられたことです。 

 

 現在、学問の中心地でもあるケソンでは学校でのクラブを中心にアルニスは行われています。

 ほとんどの人は卒業後は続けることは出来ません。一般人の生活ランクからすると、非常に謝礼が高額なのです。

 この写真のように、スペイン様式の狭い路地に人々は暮らしています。ロープを張って洗濯物を干しています。

 中央にいるのはマスタルです。この狭い中にタイヤを吊るし、アルニスダ―は練習をしています。

 以上が私の見たる中世から現代にいたるまでのマニラの武術史のアウトラインです。

 このようにしてこの日本人の元に渡ってきた物を持って、フィリピンに恩返しをしたいと思っています。 

 

12月の練習予定 随時更新

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 現状の12月の予定は以下になります。

 

 4日 日曜日 湘南クラス 10時から茅ヶ崎です。http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12223960413.html

 

 11日 日曜日 14時 ラプンティ・アルニス初伝来感謝祭http://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12223939451.html

           18時 関内ワークショップhttp://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12223783283.html

 

 17日 土曜日 14時より大通り公園にて通常稽古

 18日 日曜日 14時より大通り公園にて練習 

 

 

 よろしくお願いいたします。

タオの徳

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 岩波書店版の荘子の外編には、徳という言葉に「もちまえ」という振り仮名が振られています。

 一般に日本人が言う徳は儒教的な物であり、タオで言う徳はちょっとニュアンスが違って、この生まれながらの「もちまえ」を差します。あるがままのことです。

 このもちまえに関するお話を引いてみましょう。

 孔子の弟子の儒者が旅をしているとき、水まきをしている老人に出会います。

 大きなカメに水を入れては撒いている老人に、儒者は声を掛けます。

「簡単に水を撒ける装置があります。設置するときはちょっと大変ですが、出来上がれば勝手に仕事をしてくれます。それを使ってみませんか?」

 すると老人は言います。

「わしの師匠が言っていたが、からくりに頼る者は必ずからくりに心を囚われる。からくりに心を囚われると本来の精神や生まれつきの心証が安定しなくなる。それはタオから外れたことだ。わしはからくりを知らないのではなくて、そんなものを使う生き方が恥ずかしいから使わないのだよ」

 儒者は恥じ入ってそこを立ち去りながら考えます。

 私は自分の先生こそが世界一だと考えていた。あんな人が居るとは思いもよらなかった。先生から教えられたのは、物事には良い物を求め、仕事には成功を求めて、骨折りは少なくて効果は大きいのが正しいと言うことだった。

 しかし、いまの人はそういう人ではなかった。しっかりと道を守って生きている物は本来の徳(もちまえ)が完全であり、持ち前の完全な物は肉体も完全であり、肉体の完全な物は精神も完全である。そのような人こそが本当は正しいのではなかろうか。

 仕事の利害とかからくりの巧みさなどを考えるのは、きっとそのような心を失ったものだ。

 あのような人は世界中から誉められたとしても振り向きもせず、世界中から非難されても取り合わず、それらに動かされることがない。そのような人を全徳(徳をまっとうする)人というのだろう。

 この話、 なんだか今どきのスピリチュアルやネットワーク・ビジネスのような物を思わせませんか?

 世の中で上手く生きてゆけないひとが、そのような小手先の手段で社会的成功を求めることを否定して、本当に自分のあるがままが求めることに目を向けるように示唆しているように思えます。

 老荘のタオイズムでは、何につけ本来の持ち前を型にはめて有効に活用しようとすることを否定します。

 曲がりくねった松を切って無理に削って材木にするようなことはタオに則っていないのです。

 これは、タオの体現である中国武術でも非常に根本にかかわることだと思いました。

 よく、中国武術の老師は本当のことを教えないと言いますが、それは資質を見ているのではないでしょうか。

 門の求めている物に本人の持ち前が合っていない場合に、無理やりに矯正して当てはめるようなことは中国思想には叶っていません。

 上のエピソードの最後、儒者は師匠である孔子のところにいって、体験したことを話します。

 すると孔子はさすがの大物です。彼は笑って、そのような道はただ内側にだけ生きている人にだけ可能なものだ。自分たちのような物には理解できる術ではないのだよ。と諭します。実に颯爽うとした男ぶりです。

 我々の武術もまた、アルニスが向いている人ならそれを納得するまで突き詰めてゆけばよい。

 蔡李佛の勁に適性があるならそれを伸ばせば良い。

 明勁が好きならそれをしてゆけばよい。

 暗勁に向いてるならすればいい。

 他人は関係ない。

 囲い込む必要もない。

 勁の資質がなく技撃をしてゆきたいならそうすればよいし、点穴や断脈の才があるならその素晴らしい素質を伸ばした方がよりよいでしょう。

 さらに勁を純化して上にゆきたいならゆけばよい。

 それぞれの人の持ち前にあった物を手渡してゆくことが、タオの思想にのっとったことだと思います。

偏差と麻薬

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 どうも最近、テレビで覚せい剤を常用していた人たちが出て自分の経験を述べる機会が多いようです。

 その中でしきりに語られるのが、類型的な妄想についてです。

 本当に驚くほど凡庸に、多くの人が同じ妄想を抱きます。

 秘密結社、盗聴、電波、宇宙からの声、本当の神の世界、身体に何か埋め込まれた。

 これらは覚せい剤の使用い限らず、いわゆるデンパ系と言われる精神疾患者にも多く見られるもののようです。

 私自身の知っている重篤な精神病者の何人かにも同様の症状が見られました。

 つまりこれは直接薬物が引き起こすというよりも、薬物によって精神と神経に問題が生じた結果おきやすい症状なのでしょう。

 このような現象は、薬物や精神への過度の負担のみならず、誤った瞑想によっても引き起こされます。

 そのようなことを、魔境や偏差と言います。私自身も内功の武術を始めるにあたってまず最初に注意されたのはそのような病症を得ないように稽古をすることでしたし、伝える側になった今ももっとも注意しているのはそこです。

 効果のある稽古、才能のある人ほど偏差をおこしたり魔境に落ちたりしやすい。

 友人の実力のある拳士の師父も、ものすごい功があったのだそうですだ、だんだんと言うことが電波を受信してきて怪しくなってきたとのことで、そちらからは身を引いたとのことでした。賢明だと思います。

 自身が魔境に落ちてしまった師父からは、正当な学問を学ぶことが出来ません。

 そこには予防策や安全のための対策が備わっていないからです。

 不完全な物しかないために、やり手が健康を損なってしまうのです。

 ではそうならないための対策とは何かというと、思想と養生功です。

 魔境というのは禅語、偏差というのは気功の言葉です。気功の思想とはおおむねタオです。

 このどちらかをある程度理解していないと、内功を行うことは危険です。交通ルールを把握していないまま公道を走るような物です。

 どちらかといいましたが、タオと禅は歴史的に文脈が繋がっています。どちらにも同じ安全のための対策が備わっています。

  タオにおいては、陰陽マークに示されるように調和が尊ばれ、その重要な書である老荘には虚、無の重要さが繰り返し説かれています。

 自分の中身をからにして、自分が自分であることさえ忘れてしまうという忘我を重要視して います。

 そのために行うのがただ座っていながら忘我になるという行、端坐忘我です。

 つまり、いわゆる座禅のような状態ですね。

 気功にはこの状態が必要です。それを入静と言ったりします。

 気功も内功の武術も、その状態になることそのものが目的であると私たちは考えます。

 だからこそ、禅の行なのです。

 しかし、そのように忘我が出来ないままで稽古を続けてしまうと、物を感じる力や、思ったものを具体化する意図ばかりが強くなり、そちらに偏ってしまいます。

 それが偏差です。

 たとえば、ボリュームを大きくすることは出来ても小さくすることや電源を切ることのできないラジオやテレビはないでしょう。

 きちんと消音やスイッチオフが出来て一つの製品として完成するわけです。

 俗に、脳には覚せい剤に勝る濃度の脳内麻薬がありうると言われています。

 気功や瞑想でそのような物を際限なく分泌させていれば、それはおかしくもなります。

 同じような症状が出るわけです。

 感じすぎ、意図を何かに発露させすぎとなり、それらが混ざり合って感じた物と自分の意志の区別がつかなくなったなら、それを人は妄想と言うでしょう。

 そのような自分の意思を消し、スイッチを切るのが忘我です。     

 繰り返しになりますがそれこそが目的であり、これが出来ない人は才能はあっても資質がないのです。

 そのような人に内功武術を伝えるということは、麻薬中毒患者にモルヒネを与えるようなものでしょう。

 倫理的にあるべきことではありません。

 厳正なまでの自己への突き放した姿勢を持とうという人にしか、取り扱いの危険な物はお渡しできないのです。

「効果の無い物ならいくらでも渡すが、効果の強い物は人を選んで渡す」

 これは中国における古くからの一般的な倫理です。 

ラプンティ・アルニス 初練習

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 本日、初のラプンティ・アルニス・デ・アバニコの練習会が終わりました。

 午前と午後のそれぞれの練習会でカンフーをしながらやっただけでしたが。

 とはいえ、しっかり教わった通りの基礎を行ったので、今後の展開のためにも非常によい経験となりました。

 午後の練習ではちょうどモダンのアーニスの経験者が居たのですが、帰りの飛行機の中で創作したのではないかとの疑惑を持たれました(笑)。

 そのくらい、いわゆるアーニス、フィリピン武術のイメージとは違います。

 本当に中国武術そのものなのです。

 ちょっと自分で説明していて恥ずかしいくらい、明らかに中国武術です。

 いつもやってるカンフーが棒持っただけじゃないか。いさぎの悪い。そこまでして売れたいのかというくらい、立ち方、歩き方一つ一つがカンフーと同じです。

 同じくカンフーの要素が強いアーニスでは、日本でも比較的普及しているピキティ・ティルシャ・カリなどはウィンチュンから取り込んでいる物がかなりありましたが、こちらは福建拳法ではありません。同じ南派の中でもコテコテの広東系南拳がもろに取り込まれています。

 そのために、私がカンフー・マスターだから教わった物が濁ってカンフー色になってしまったのではないかと疑問を持たれても仕方ないくらいでした。

 しかし、私もいままで様々な武術や格闘技を学んできましたが、基本的に混ぜてきてはいません。

 今回のも、本当に習った通りに講義したのですが、まったくカンフーだったのです。いやホントだって!

 実際、学生さんも来る前にユーチューブで確認してくれてたのですが驚いていました。

 そして実際に体験してなおビックリです。

 グランド・マスタルがコン・プー(カンフー)から伝わったんだと言うだけあって、元から平馬系広東武術が土台にある。

 そうやって教わった通りに手渡してきましたよ。

 いまいる皆さんからすると南進の経緯をたどる経緯になりましたが、これから来てくれる生徒さんからすると、私と同じでアルニスを学んでから、そのルーツを学ぶという旅をすることもあるでしょう。

 きっと素晴らしく面白い経験になるはずです。

 草創期の日本の中国武術道場では、中国武術と日本古武術を併修できるところが多かったようですが、これからはシカラン系アーニスとテコンドーを学べる道場が出来たり、パナントゥカン(ダーティ・ボクシング)系アーニスとボクシングが学べるところが出来てゆくかもしれません。

 土台があるほど、そこから派生した技術はよくなると思います。

 実に楽しみな話です。

 そんな訳で明日は、湘南クラスでの朝からの練習会になります。

現代式じゃないエスクリマ

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 本日の練習で、うちの筆頭学生さんがラプンティ・アルニスを初体験したのですが、彼も私と同じく、もともとモダンなどのエスクリマを割と熱心にやっていた人間です。

 そのため、ラプンティ・アルニスと言う超独特なエスクリマをモダンの視点から研究する会のような様相を呈しました。

 それぞれ別のエスクリマもしているため、数流派との比較検討です。

 結果、ラプンティはそーとー厄介なシステムではないかという見当が付きました。

 現代式の、モダン・アーニスやペキティ・ティルシャ・カリは、かなり広範囲的に技術を再統合した大変に良質なシステムだと思います。

 あれもできるこれもできる、昔はこんなのをやっていたし、最近はこういうのもできた、と、次々といろんな技を教えてもらえました。

 しかし、ラプンティはよくも悪くも必勝パターンに持ち込むことしかしないのです。

 始まりはどんな形だったとしても、そこから必ず勝てる作戦に引きずり込みます。

 たとえるならグレーシー柔術のような感じです。

 確かにそうすりゃかなり勝てるだろうけども、ちょっと露骨すぎゃしないかい、と二人でいささか途方にくれたほどです。

 なので結局は多様性ではなくて地力の高さがよりどころとなり、結果ひたすらタイヤを叩いてサヤウをしまくることになります。

 もしかして、これはちょっとつまらないスタイルなのでは……と思ってしまいました。

 これを面白くするには……どうすればいいのだろう……。

 正直、ケソンで一緒に練習をしていた現地の人たちがなぜやっていたのかはわかりませんでした。

 あるいは、いまだ日本と比べれば治安が悪いとも言えるフィリピンでは、リアルな護身術としてのニーズがあるのかもしれません。あらかじめ、棒を持っている……護身術……? 

 いや、そうではなくて、棒状の物ならなんでも手近な物で活用できるというケース・スタディなのかもしれません。

 と、言うのもこれが中国武術をルーツに持つものだと言うところから考えた場合、日用品を兵器として用いると言う発想が普遍的にあるからです。 

 そのように、一見しては武器には見えない兵器を暗器と言ったりもします。

 たとえば箸であったり、筆であったりします。

 うちには鉄笛や傘と言ったものが伝わっています。

 更には、鉄扇という物まであります。

 この鉄扇、つまり鉄の骨の入った扇子ですね。扇子をスペイン語でアバニコと言います。

 ラプンティ・アルニスの正式名称はラプンティ・アルニス・デ・アバニコ。

 その独特の近距離用の打ち方を、アバニコ・ストライクと言いますが、これ、あるいは本当に鉄扇術から来たとしてもおかしくありません。

 おそらくはたいていのエスクリマにアバニコ・ストライクはあると思われますが、ラプンティではほとんどの攻撃がアバニコです。

 むしろ、アバニコじゃなき攻撃を「ロングレンジ」と呼んで特別視しているほどです。

 そのためか、構えや立ち方そのものが他派とはまるで違っています。

 私は練習にカメラを持ち込んで動画を撮らしてもらっていたのですが、練習仲間(BROと言う)たちは「ちゃんと撮れたか? 確認してみろ」とカメラを覗き込んできます。

 確認しようと操作していると、サムネイルに入っている昔の私の練習風景などを観て「モダンだ」「モダンだ」とうなずいています。それくらい、小さな画面でちょっと見ただけで現代式の物とは違うヴィジュアルをしています。

 時にその時のBroたちの反応の感じが、柳生の里の朝鮮出兵経験者の老人たちが江戸の剣術を見て「今できじゃ」「腰高じゃのう」などと言っているような感じで、妙にスタジオ・ジブリのアニメでもみているような面白さがありました。

 ここで思い出したのですが、私は柳生の剣をいくらかかじった時期があります。

 その時に、これはエスクリマに似ているなと思っていたのですが、あながちラプンティに関してはまったくつながっている可能性が無いとは言えないのです。

 と言うのも、以前に書いた記事にあるように、スペイン時代のフィリピンにはすでに数百年も前からの中華系移民がいて、本土との貿易をおこなっていました。

 また、江戸期には日本の侍も多々寄港しており、日本人村もありました。

 彼等は貿易とはいう物の、その実態は海賊です。中国武術には南船北馬という謂いがありますが、南派拳法というのは海賊の武術の要素があります。

 日本人の海賊、あるいは日本人の海賊のスタイルを模した中華系の海賊を、倭寇と言います。

 この倭寇に伝わっていたのが、柳生の剣だと言われています。

 もともとは柳生剣士の朝鮮の役の時に使われた刀術を、中国側が研究して同様の刀術を創始したのです。

 この中華製の日本刀術を、朝鮮柳生……とは言わずに苗刀術と言います。

 理由は二つあり、一つには刀の形が稲の穂のような尖り方をしていたということ。もう一つは、中華帝国の伝承では四川で稲作をしていた苗族という民族が東方に移民したものが日本人だと言われていたからです。

 この柳生の剣は私の先生が曰く「柳生は細かい」という感じで、手元の操作で刃をクルクル返すというアバニコのような手法も多用されます。

 また、真向に足の甲まで切っておいてから真上に返ってくるラプンティが得意とする手法も逆風の太刀と言って伝わっています。

 いずれにせよ、もろに海賊武術のヴァイブスがラプンティにはあります。

 このように独特すぎる物が、どのようなニーズで現代のフィリピンに残っているのかはいまだよくわからないのですが、日本においてはその価値をこれからよく検討し、楽しみ方を創造してゆきたいと思います。

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12・18 日曜日 アルニス・サンデーのお知らせ

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 12月18日の日曜日、山下公園にてアルニスの練習を行いたいと思います。

 時間は朝の10時からとなります。

 よろしければご参加ください。

 雨天時は中止となります。

 お問合せ、お申込みはこのブログのアドレスまでお気軽にどうぞ。

鉄環あります

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 練功に有効な鉄環が入りました。

 一般の通販だと一つ3800円から4000円ほどするようですが、一つ2500円で販売いたします。

 ご希望の方は連絡ください。

今回のフィリピン行のアウトライン

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 思わぬことになってしまいましたが、そもそもの今回の調査目標は五祖拳でした。

 それがフィリピンにてクンタオ(拳道)という武術になっていると聞いていたからです。

 五祖拳は、鶴拳はじめ、太祖拳、羅漢拳、猴拳などの五派が総合された南派拳法で、北で編纂された少林拳の南進の歴史をそのまま意味している門派です。

 エスクリマと蔡李佛拳をする者として、その実態を調査したかったのです。

 しかし、現地でクンタオは見つけることが出来ず、また五祖拳も見つかりませんでした。

 代わりに、そこをもう一飛び越えてフィリピン武術内中国武術的なラプンティ・アルニスと遭遇できました。

 それまで知りもしなかった、まったくの新発見をすることが出来、これを持ち帰ることが出来たのは大きな喜びです。

 そしてさらに新たなる発掘物として、モンゴシというラプンティの徒手の部のフィリピン式カンフーの存在が見つかりました。

 フィリピンはいまだ言語統一が進んでおらず、手に入りやすい武術書などは発行されていないようです。書店では輸入品の英語の本が多くの棚をしめていました。

 このため、調査はフィールド・ワークが主体にならざるを得ません。

 とりあえず私はここまでを獲得しました。

 少林拳やフィリピン武術、またインドネシア武術などへの、更なる研究者が現れてこれを引き継いでくれることを望みます。

 日本の武術界のみならず、アジアの武術における研究の大きな進展がみられ、それらの武術の美点がより多くの必要としている人の手に届くことを望みます。

 いまの武術界は、あまりにも自己流や創作が増えすぎていて、歴史によって熟成されてきた人類の遺産が見失われつつあるように思います。

 もちろんそれらが護身術やビジネスなどで劇的な功利性を示すとは思っていないのですが、歴史の最先端に居る現代人として、保護して未来に送ることができたらと思っています。

1月22日(SUN) ラプンティ・アルニス初伝来感謝祭TOKYOのお知らせ

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 2017年 1月22日の日曜日に、ラプンティ・アルニス初伝来感謝祭TOKYOを行います。

 文京総合体育館武道場(板張り)にて、都内初のラプンティ・アルニスのワークショップを行います。

 サヤウ(型)を中心とした珍しいタイプのフィリピン武術の、基礎から戦術理論の理解に至るまでを紹介する内容にしようと思っています。

 日本では数少ない、ジム系ではない家伝流儀系のエスクリマのため、総合的なフィリピン武術の練習をしている方にも関心の高い内容ではないかと思います。

 武術、格技未経験者の方もぜひ、この機会にお試しください。いまならスタートは一緒です!!

 

 場所 文京総合体育館 武道場

 時間 15時~17時すぎ

 参加費用 

 一般            5000

 事前申し込み      4000

 肉文祭観覧者      3000

 肉文祭出演者      無料(二度目以降の方は投げ銭) 

 外国人          投げ銭

家伝流儀

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 ラプンティ・アルニスのお披露目活動をいくつか企画しています。

 一定時間内で大要を理解してもらえる内容を考えねばならないのですが、構成を考えているうちに、強く感じる部分がありました。

 それは、よくも悪くもこれが普及を目的として創始されたシステムではなく、戦うためのものであったなのだなということです。

 マニラに行ったとき、最初に見込みをつけていたのはモダン・アーニスでした。

 これまで自分がやっていたのと同様の物で、古伝のアーニスから様々な要素を抜き出してさらに最先端の工夫を加えたと言われるものです。

 総合的なのでそれさえすればフィリピン武術のアウトラインは伝わるだろうと思いました。

 しかし、目当てにしていたモダンのアジトはバタンガス地方というとんでもない場所にあり、とても私の滞在していた都市部から気軽に行って帰れるようなところではありませんでした。

 そこで交通の利便性からもういくつか候補を上げたのですが、そのうちの一つがパナントゥカン(ダーティ・ボクシング)系のジムで、もう一つがカリス・イラストリシモで、最後がエスクリマ・ラバニエゴでした。

 ほかにもKAOMAなどは目撃したのですが、スポーツ競技に関心がないので見送りました。

 私の好みからすると、このうち最も学びたかったのはエスクリマ・ラバニエゴです。

 しかし、いまは80になるベルト・ラバニエゴ先生は練習場所で見かけることが出来ず、縁がつながりませんでした。

 パナントゥカンはジムの名前にカリ・センターと入っていたのが気になりました。

 カリとはアメリカで創始された言葉で、その言葉が入っているということは、アメリカナイズされた部分がウリであると推察されました。

 せっかくフィリピンに居るのに、アメリカナイズされた物を学ぶ必要はないと思いました。

 カリス・イラストリシモは、もっとも偉大な男(ココン)とあだ名された剣豪、アントニオ・イラストリシモ先生の流派です。

 生涯真剣で戦ってきたイラストリシモ先生の、剣術を学ぶことができます。

 しかし、私はどうも刃物が苦手です。

 剣術よりもできれば棒の技の方が心が落ち着きます。

 そんなこんなで迷っているうちに、たまたまラプンティ・アルニスという、まったく知らなかった物と出会えました。

 ラプンティ・アルニス・デ・アバニコも、カリス・イラストリシモと同じく家伝の流儀です。

 上述のモダン・アーニスや日本でも主流となっているピキティ・ティルシャ・カリのような、普及のために構成されたシステムではありません。

 フィリピンでもっとも有名な、ドセ・パレス式やバリンタワック・エスクリマもまた、ジムで万民に教えるために開発された技術です。

 では、家伝の流儀とはどのようなものでしょうか。

 それには、アントニオ・イラストリシモ先生のエピソードが参考になりそうです。

 はじめ、弟子入りを志願した者たちが現れたとき、イラストリシモ先生は「自分のは自分が使うための物で、人に教えるための物ではない」と指導を断ったそうです。

 それでもどうしてもというので教え始めたのですが、これがまったく一貫性や法則性などがみつからず、生徒たちは大変に苦労したようです。

 そして、イラストリシモ先生を教材として研究し、その弟子たちによって作られたのがカリス・イラストリシモだそうです。

 これまでに何度か、古典のエスクリマはつまらないだとか、家伝の流儀は整備されてなくてわかりにくいという話を聞いたことがあります。

 まさにそれこそが古いタイプのエスクリマの姿なのでしょう。

 あくまで使うためのものであって、学ぶための物ではないのです。

 もちろん、現代人である我々がエスクリマを使うことはありません。

 刃物はおろか棍棒さえ平素持ち歩いていない。

 そういう実利の意味で言えば、もはや使うためのエスクリマという物は我々には必要がないのでしょう。

 もしそれを求めるのなら、あちらの流派の方が強い、いやあっちが強いと、浅瀬レベルの見識であっちこっちをさまようばかりの浅い物しか学べなくなるのではないでしょうか。

 本当に深い物をしっかりと身に着けようと思ったら、どうしてもある程度絞る必要が出てくる気がします。

 たまたま私は自分に最も合った物に出会えたので、迷う必要はありませんでした。

 また、特に強くなりたいとか勝ちたいとか思ってやっているわけではないのもあります。

 フィリピンでやっている人たちにも、そういう気持ちの気配は感じられませんでした。

 みんななんとなく楽しくやっています。

 そうやっているうちに地力が付いてゆくという感じでした。

 私の愛好している、ライフ・スタイルとしてのマーシャル・アーツというコンセプトがじつにそこには見られた気がします。

 家伝の武術というものにはどこか、そのようななんとなく感のようなものが伴う部分がある気がします。

 昔、日本に中国武術が伝わったとき、それは当時の興味の対象であった空手や柔道のような物の一つとして受け取られました。

 そのため、それらと戦って勝つための新兵器という印象を持たれたのではないかと思われます。

 そのせいか、私たちの前の世代の中国武術家の方々からは、非常に強者願望が強く感じられます。

 私たちの世代には、すでに総合格闘技が広まり、ヴァーリ・トゥードがあり、その上で立ち技限定や寝技限定として細分化された物を愛好する土壌がありました。

 中国武術はすでにそれ単体として、そのあるがままの真価を見ることが可能でした。

 私自身は、一度も強くなるための手段として中国武術を考えたことがありません。

 そのような価値観の相対化が出来ていないと、非常に危険なことになる気がします。

 兵器が当たり前のエスクリマや、さらには暗器までがたしなみである正調の中国武術においては、強弱は最初から埒外であるべきです。

 一人前の武術家として、兵器や暗器に精通すれば、それは当然理解できるはずです。

 そのような物を使って強いも弱いもありえない。

 そこが理解できない人は、何をどれだけ学んでも何も得られないのではないでしょうか。

 兵器を学んで強くなったような気になるなどというのは、どれだけ弱い心の持ち主の感情の働きなのでしょうかといたたまれなくなります。

 そのような、自らのさもしい心をさらに助長するようなことをすべきではない。

 そこには幸せはない。

 フィリピンでは、日本よりずっと過酷な環境があり、拳銃が合法で散弾銃や自動小銃をむき出しに持った人が普通に歩いています。

 そのように、強者幻想を肥大させない環境こそが、純粋に武術を楽しめる土壌となったのではないかと思われます。

 さわやかな若者や育ちのよさそうな女の子たちが、屈託なく練習をしているのを見ることが出来ました。

 日本にもぜひ、そのような風土を持ち込みたいものです。

杜子春のこと

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 芥川龍之介の「杜子春」の元ネタになっているのだろうなあという話を、中国の古典などを呼んでいるとまま目にします。

 おおよその話はというと、青年が夕方に都のはずれで途方に暮れていると、仙人が現れて宝をくれるが、その財は一年で使い果たされて手元には何も残らず、青年はまた途方に暮れる。

 そこで次に仙人にあったときに自分も解脱して仙人になりたいと言うと、仙人は「これから何があっても一言も口をきかなければ仙人になれる」と告げて彼を幻の人生に送り込みます。

 そこでいろいろあるのですが、最終的に青年は声を出してしまい、所詮解脱は出来なかったか、という内容です。

 このお話、芥川の方では最後に地獄に行って鬼卒より攻められるのですがそれでも声を出さず、しかし両親が責められているのを見て声を出してしまう、ということになっています。

 そのとたん地獄の景色は消え去り、脇には刀を構えた仙人が居て「もしあれでも声を出さなければお前の首を切り落としていた。これからは両親に孝行なさい」と儒教めいたことを言って去ってゆく、という下げになっています。

 そのために、一般には解脱なんかを求めるよりも地道に生きろと言うようなメッセージのように解釈されがちですが、中国のほうでは少し内容が変わります。

 中国の「杜子春伝」によると、青年に声を上げさせるのは親ではなくて子になっています。

 それも、仙人の術の中で生まれた実在はしない子供です。

 その子供への慈愛で叫びをあげてしまった青年に、仙人は「バカめ、あそこで声を上げなければ解脱が叶ったというのに。せっかくお前は喜怒哀懼悪欲を克服していたのに、愛の執着を捨てることが出来なかった。しょせんはお前には仙骨がなかった」と具体的なことを言って去ってしまいます。

 これらの話は、荘子にある胡蝶の夢の、夢の中の人生というモチーフが土台にあると推測されます。

 そしてタオイズムの観点からすると、芥川の杜子春のラストシーンの意味はまったく変わります。

 タオにおいては、死ぬことによって肉体という束縛から解放されて仙になれるという考え方があります。

 スター・ウォーズでオビワン・ケノービが死んだシーンのモデルになった屍解という現象です。

 つまり、杜子春青年は本当に仙人になれる直前までいっていたのではないでしょうか。

 ただ、なりそこなってしまったので未練を残してもしようがないので、思いやりとしての世間知から仙人は、親孝行せいなどという方便を残したのだと考えられます。

 この、苛烈にして極めて細い隙間をくぐるようなことが出来なければ、仙になるというようなことはできない。

 そして仙にならないまでも、タオイズムの求める自由というのは、社会通念的な物からの解脱であるということが読み取れます。

 もちろん、ねじれてしまったコンプレックスから好き勝手するのとは違います。それは逆の意味で社会通念に自縄自縛していることに他なりません。

 キリスト教圏における悪魔主義やパンクスのような物には、そのような非常に情けない自由への誤解が見て取れます。

 そうではなく、人間の作り物を離れて自然の流れにのっとろうというのがタオの中核です。

 決して無道ではいけません。

 きちんと道の上に足を着けて歩くことがタオの言う解脱であり、自由です。

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山下公園での練習場所について

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 さて、いよいよ今週末に迫ってまいりましたアルニスの練習会ですが、天気予報でも晴れとあり、大変楽しみなところです。

 場所ですが、山下公園の中でももっとも海に向かって右側、「マリンタワー前」信号を渡ったあたりにあります、石のステージのから見える辺りに14時前に居ようと思います。

 お申込みの方、飛び込みで参加される方、ぜひそちらにいらしてお気軽に声をかけてください。

 

 https://www.bing.com/mapspreview?&ty=18&q=%e5%b1%b1%e4%b8%8b%e5%85%ac%e5%9c%92&ss=ypid.YN5286x13255617596606969856&ppois=35.4449577331543_139.649536132813_%e5%b1%b1%e4%b8%8b%e5%85%ac%e5%9c%92_YN5286x13255617596606969856~&cp=35.444958~139.649536&v=2&sV=1

12月の練習予定 随時更新

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 今月の最新の予定です。

 

 

17日 土曜日 14時より大通り公園にて通常稽古

18日 日曜日

 10時から、アルニス・サンデーです。ラプンティ・アルニスの朝練習をお送りします。

 山下公園のマリンタワー前信号を渡ったあたりにおります。

 

 一般 2500円
 外国人 500円 
 肉文祭 および神ノ木演武祭参加者 初回無料 二回目以降は投げ銭
 

 14時より大通り公園にて練習

 アルニス希望者とカンフー希望者は別内容となります。

 

 

 よろしくお願いいたします

1月の予定 随時更新

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 原則、毎週土曜日は大通り公園で通常稽古となります。

 内容は希望者によってアルニスとカンフーを行います。

 時間は最初に予定を申し込んだ方に合わせます。午前でも午後でも大丈夫です。

 申し込みが無い場合はお休みになります。

 

 月に二回、アルニス・サンデーというアルニスの練習会を山下公園で行う予定です。

 サンデーという通り、これは朝の10時から行います。

 こちらは外国人と会員は投げ銭で参加できます。気軽な休日の朝の運動にどうぞ。

 会員登録されていない方は1500円になります。

 

 8日 日曜日 アルニス・サンデー 新年初アルニス・サンデーです。10時より山下公園にいらしてください。

 

 15日  日曜日 湘南クラス 10時より 茅ヶ崎ダンススタジオ YOU&ME 

 こちらはアルニス、気功、カンフーなどを行います。通常稽古と同様の内容です。

  

 18時 関内 フレンドダンス教室にてワークショップ

 

 22日  日曜日 ラプンティ・アルニス初伝来感謝祭TOKYOhttp://ameblo.jp/southmartialartsclub/entry-12226283879.html

 

 

12月11日の感想

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 12月11日の日曜日は、午後にアルニス感謝祭、夕方からは月一ワークショップという一日でした。

 どちらもそれぞれアルニスをやったのですが、大変に勉強になりました。

 アルニス経験者と、未経験者でまったく動きが変わります。

 そういえば私も始めたばかりのころは一つ一つの動きがそれまでの概念にないものだったので非常に混乱して、一回の練習で二つほどの動きを覚えて持ち帰るのが精いっぱいでした。

 初学のころは覚え事が非常に多くて大変です。

 そんな中で、サヤウを12ほどやりました。多い。

 もちろんそれだけでなく、対人練習もわりにしっかりやりました。

 サヤウの中ではベルシックがほとんどで、サヤウらしい大きな物は二つです。

 エスクリマ経験者にとっては、その二つが特にメインの覚え事になったものだと思います。

 一つは威力を出すための素振り的なサヤウ、もう一つは移動系のサヤウです。

 対人練習では、独自技術であるマグニートと、そこからのディスアームなどをやったのですが、それらを含めた全体像を把握するにはやはりちょっと初回には色々覚えないといけないところですた。すべてが有機的に繋がっているためです。

 現代式のエスクリマをやっている人達の動きを見ていると、やはり基礎力が高いと感じました。

 ラプンティのような家伝スタイルは、現代式の広範囲的な技術体系の中の特定分野の強化練習に良いのではないかと思いました。

 練習パートナーが居ないちょっと空いた時間などにも、サヤウなどは非常に地力を高める役にたつのではないかと思います。

シンゲル・シナワリ

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 ラプンティ・アルニスでも、両手にバストンを持って使う技術があります。

 そういうものを一般にシナワリと言います。

 しかし、ラプンティのシナワリは他のと違って、特にシンゲル・シナワリと呼びます。

 なんでシンゲル(シングル)? と思っていたのですが、よく考えると他のと違って、左右のバストンを交互に使いません。

 せっかく両手に持っているのに、右手なら右手だけ、左手なら左手だけを使うことがメインとなっています。

 思ったのですが、おそらくはこれは右手だけでなく左手でもどうように片手操法が出来るようにというためなのではないかと思います。

 なぜなら、ラプンティは片手での連続攻撃が実戦での基本として設定されているのですが、その片手猛烈ラッシュを、左手でも行うことがあるのです。

 マグニート、という特殊な技術があります。

 これは中国拳法で言う橋法や扣打、拿のような、片手で相手を捕まえてしまって打ち据えるという必勝パターン戦法なのですが、この場合に、逆に相手が右手のバストンを掴んでくることがあります。

 そのような場合に、はじめて複雑なディスアーミング(中国武術で言う空手奪刀)を行います。

 通常のエスクリマならそれ自体が目的化しているかのようなディスアーミングですが、ラプンティでは初めからそれを狙ってゆくことはあまり推奨されていません。その時間があったらマグニートしてるのだから連打で袋叩きです。

 それを掴み返されて阻止されて、はじめてディスアーミングします。

 両手と両方のバストンが絡まっているので、非常に複雑な姿勢ですが、そこからそれらを絡めて武器への関節技を掛けてバストンを奪います。

 その場合に、左手側のバストンを奪うことがあります。

 そのような場合に、右手と同様に左手も使って引き続き連打攻撃を行ってゆくわけです。

 沢山打ってゆけば、その内に決定打が急所を捉えもするでしょう。そうやって勝利に持ち込むわけです。

 これはあるいは、ドセ・パレス系のデス・マッチが、投げとディスアーミングがポイントになっており、先に3ポイント取ると勝ちだということに由来しているのかもしれません。

 すぐに武器を奪ってしまっては元気な状態で次のラウンドになってしまうので、それまでに出来るだけ弱らせようという作戦があったのではないかと考えます。 

 

 

 

 

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