ラプンティ・アルニスのお披露目活動をいくつか企画しています。
一定時間内で大要を理解してもらえる内容を考えねばならないのですが、構成を考えているうちに、強く感じる部分がありました。
それは、よくも悪くもこれが普及を目的として創始されたシステムではなく、戦うためのものであったなのだなということです。
マニラに行ったとき、最初に見込みをつけていたのはモダン・アーニスでした。
これまで自分がやっていたのと同様の物で、古伝のアーニスから様々な要素を抜き出してさらに最先端の工夫を加えたと言われるものです。
総合的なのでそれさえすればフィリピン武術のアウトラインは伝わるだろうと思いました。
しかし、目当てにしていたモダンのアジトはバタンガス地方というとんでもない場所にあり、とても私の滞在していた都市部から気軽に行って帰れるようなところではありませんでした。
そこで交通の利便性からもういくつか候補を上げたのですが、そのうちの一つがパナントゥカン(ダーティ・ボクシング)系のジムで、もう一つがカリス・イラストリシモで、最後がエスクリマ・ラバニエゴでした。
ほかにもKAOMAなどは目撃したのですが、スポーツ競技に関心がないので見送りました。
私の好みからすると、このうち最も学びたかったのはエスクリマ・ラバニエゴです。
しかし、いまは80になるベルト・ラバニエゴ先生は練習場所で見かけることが出来ず、縁がつながりませんでした。
パナントゥカンはジムの名前にカリ・センターと入っていたのが気になりました。
カリとはアメリカで創始された言葉で、その言葉が入っているということは、アメリカナイズされた部分がウリであると推察されました。
せっかくフィリピンに居るのに、アメリカナイズされた物を学ぶ必要はないと思いました。
カリス・イラストリシモは、もっとも偉大な男(ココン)とあだ名された剣豪、アントニオ・イラストリシモ先生の流派です。
生涯真剣で戦ってきたイラストリシモ先生の、剣術を学ぶことができます。
しかし、私はどうも刃物が苦手です。
剣術よりもできれば棒の技の方が心が落ち着きます。
そんなこんなで迷っているうちに、たまたまラプンティ・アルニスという、まったく知らなかった物と出会えました。
ラプンティ・アルニス・デ・アバニコも、カリス・イラストリシモと同じく家伝の流儀です。
上述のモダン・アーニスや日本でも主流となっているピキティ・ティルシャ・カリのような、普及のために構成されたシステムではありません。
フィリピンでもっとも有名な、ドセ・パレス式やバリンタワック・エスクリマもまた、ジムで万民に教えるために開発された技術です。
では、家伝の流儀とはどのようなものでしょうか。
それには、アントニオ・イラストリシモ先生のエピソードが参考になりそうです。
はじめ、弟子入りを志願した者たちが現れたとき、イラストリシモ先生は「自分のは自分が使うための物で、人に教えるための物ではない」と指導を断ったそうです。
それでもどうしてもというので教え始めたのですが、これがまったく一貫性や法則性などがみつからず、生徒たちは大変に苦労したようです。
そして、イラストリシモ先生を教材として研究し、その弟子たちによって作られたのがカリス・イラストリシモだそうです。
これまでに何度か、古典のエスクリマはつまらないだとか、家伝の流儀は整備されてなくてわかりにくいという話を聞いたことがあります。
まさにそれこそが古いタイプのエスクリマの姿なのでしょう。
あくまで使うためのものであって、学ぶための物ではないのです。
もちろん、現代人である我々がエスクリマを使うことはありません。
刃物はおろか棍棒さえ平素持ち歩いていない。
そういう実利の意味で言えば、もはや使うためのエスクリマという物は我々には必要がないのでしょう。
もしそれを求めるのなら、あちらの流派の方が強い、いやあっちが強いと、浅瀬レベルの見識であっちこっちをさまようばかりの浅い物しか学べなくなるのではないでしょうか。
本当に深い物をしっかりと身に着けようと思ったら、どうしてもある程度絞る必要が出てくる気がします。
たまたま私は自分に最も合った物に出会えたので、迷う必要はありませんでした。
また、特に強くなりたいとか勝ちたいとか思ってやっているわけではないのもあります。
フィリピンでやっている人たちにも、そういう気持ちの気配は感じられませんでした。
みんななんとなく楽しくやっています。
そうやっているうちに地力が付いてゆくという感じでした。
私の愛好している、ライフ・スタイルとしてのマーシャル・アーツというコンセプトがじつにそこには見られた気がします。
家伝の武術というものにはどこか、そのようななんとなく感のようなものが伴う部分がある気がします。
昔、日本に中国武術が伝わったとき、それは当時の興味の対象であった空手や柔道のような物の一つとして受け取られました。
そのため、それらと戦って勝つための新兵器という印象を持たれたのではないかと思われます。
そのせいか、私たちの前の世代の中国武術家の方々からは、非常に強者願望が強く感じられます。
私たちの世代には、すでに総合格闘技が広まり、ヴァーリ・トゥードがあり、その上で立ち技限定や寝技限定として細分化された物を愛好する土壌がありました。
中国武術はすでにそれ単体として、そのあるがままの真価を見ることが可能でした。
私自身は、一度も強くなるための手段として中国武術を考えたことがありません。
そのような価値観の相対化が出来ていないと、非常に危険なことになる気がします。
兵器が当たり前のエスクリマや、さらには暗器までがたしなみである正調の中国武術においては、強弱は最初から埒外であるべきです。
一人前の武術家として、兵器や暗器に精通すれば、それは当然理解できるはずです。
そのような物を使って強いも弱いもありえない。
そこが理解できない人は、何をどれだけ学んでも何も得られないのではないでしょうか。
兵器を学んで強くなったような気になるなどというのは、どれだけ弱い心の持ち主の感情の働きなのでしょうかといたたまれなくなります。
そのような、自らのさもしい心をさらに助長するようなことをすべきではない。
そこには幸せはない。
フィリピンでは、日本よりずっと過酷な環境があり、拳銃が合法で散弾銃や自動小銃をむき出しに持った人が普通に歩いています。
そのように、強者幻想を肥大させない環境こそが、純粋に武術を楽しめる土壌となったのではないかと思われます。
さわやかな若者や育ちのよさそうな女の子たちが、屈託なく練習をしているのを見ることが出来ました。
日本にもぜひ、そのような風土を持ち込みたいものです。