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Channel: サウス・マーシャル・アーツ・クラブ(エイシャ身体文化アカデミー)のブログ
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ガワと中身

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 先日の茅ヶ崎クラスが終わってから、スタジオのオーナーさんとお話をしました。

 元自転車のチャンピオンで、いまはダンサーという高い身体能力を持った方なので、お話を聞くといつも大変勉強になるのですが、今回は自転車でのトリックについて実演付きで伺えました。

 自転車で、ジャンプしておいてウィリーで着地してそのままターン、というようなことをしてくれたのですが、もちろん私には何をどうやればそんなことが出来るのかわかりません。

 分からないながらも、体制が崩れては倒れてしまうから、身体の内側で維持している軸をそのまま全体に影響させて自転車をコントロールするのかな? と思いました。

 しかし、実際はそうではなくて、ガワで動かしているんだよ、と教えてもらいました。

 ダンサーでもあるので、内側はお仕事ですごく使っているはずなのですが、それとは別に外の物はこの場合体の外側で操作していたようです。

 なるほど。

 しかし、外側と言っても、それが単純にアウター・マッスルであるということにはなりません。場所としてのガワです。

 私たちの勁でも、真芯に近い軸の部分で使う物と、外側に近いところで使う膜があります。

 この膜、外側と言えば外側なのですが、いうならば外側の裏です。

 自分がソフトビニール人形になったことを想像しなさい、と私は教わってきました。

 その空っぽの内側の方の面を使います。

 もちろん、一部の天才肌の人をのぞいて、多くの人にはそれだけでは足りません。

 そこの活用を促す内功法と、その膜そのものを育てる練功をしてゆかないと、いたずらに内側に負担がかかって偏差を起こします。

 そういった段階的な育成法が備わっていないスポーツの世界で自得している人は、間違いなく天才です。

 だからこそ、そこには明確な結果の壁があるのでしょう。

 内功の武術はそれではいけません。

 誰でもが出きて、きちんと変化を続けてゆける設定がされていないと。

 ただ、それでも安全なガイドラインを守らないと偏差を起こして心身のバランスを崩してしまいます。

 そのために、人となりの部分がある種の才能や素質なのだと言うことも出来るかと思います。

 中国武術で本当のことを授かれる人が一握りなのは、この部分があるのではないかと感じています。

 当人のためにならない、ただ病気になるだけのことをわざわざ時間をかけて教える人はいません。

 安全な用法を守って行ってくれる人にしか、精妙な物を手渡すわけにはいかないのです。

 それは師父となった物の責任だと思います。

 もし非常事態でその責任を破ったときには、白蓮教の乱や、義和団事件の時のような、安全性を始めから度外視した、左道の武術が広まることになります。

 それらはその場の効能はありますが、同時にその場で滅びることを前提をしたものです。

 そう言った物は、本来の道ではない。

 そこが中国武術がただの戦闘の手段や格闘技ではなく、学問であり、ライフスタイルであるというところです。

 それを理解しないと、本当のことは学べません。

 その中核となる気功の部分は、アルニスだけをやる人にも経験してほしいなあと思っています。


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左手の話

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 両手でバストンを操るシナワリが、ラプンティにおいてはシンゲル・シナワリであるということを少し前に書きました。

 実際、相手の兵器を奪ってこちらは両手持ちで攻めるというのはラプンティの必勝パターンです。ほぼ残心と言ってもいいような様子で練習されます。

 しかし、シナワリは実は両手持ちの練習のためではなくて左手の訓練だと言う説があります。

 確かに、左手だけを練習するケースが、シンゲル・シナワリを始めとして基本の中にちょいちょい出てきます。

 以前、私が好きなエスクリマドールのエピソードを紹介しました。

 それをあらためて引き合いに出してみたいと思います。

 エスクリマの流派、コンバット・マランガ・エスクリマのグランド・マスタルである、ロドリゴ・マランガはエスクリマドールの家に生まれたそうです。https://www.youtube.com/watch?v=F4VMz5SOCJg

 しかし、家伝だからやるというだけで、若いころは積極的に稽古していなかったと言います。

 ですが、酒場で酒を飲んでいる時に、地元の有名なエスクリマドールであるノイ・タンションと出くわしました。

 すると彼がまるで80年代の映画に出てくる不良のように「なぁ、お前マランガだろう? 俺とパラカウをしようぜ」としつこくせがんできたことがあったそうです。

 パラカウというのはバリンタワック・エスクリマ系の流れで行われる、ある程度フリーに打ち合いを伴った練習法です。

 これを我々はタピタピといいいます。この言葉は、バリンタワックとはライバルであったドセ・パレス派の流派が遣うもののようです。

 ロドリゴは断ったのですが、タンションに押し切られて仕方なく乗った結果、ボコボコ叩きのめされてしまったそうです。

 それが悔しくて、父親から改めて熱心にエスクリマを学びなおしたと言います。

 昼は父親に稽古をつけてもらい、夜になると酒場に行ってタンションを待ち、出くわせばパラカウを挑み、そして敗北という日を繰り返していたのですが、ある時ロドリゴがまたパラカウを申し出ると、タンションは「俺ではもうお前に打ち込めない」と断ったそうです。

 ロドリゴは、タンションに今でも感謝していると言います。

 その辺の酒場に剣士という職業の人がいて、そのように暮らしていた時代の、ヴァイブスあふれる話です。

 ちなみにこれは20世紀です。

 そんなタンションですが、実は左利きだったのだと言います。

 パラカウ、というか我々のいうタピタピは、名前はタピタピですが、実は内容はパラカウと同じ動きをします。

 そして、私たちの独自の動作であるマグニートという掴んでおいて打ち込む技術を用いたとき、相手にバストンを止められたら、左手に持ち替えてそのまま攻防を続けるということをします。

 あるいは荒くれ者のノイ・タンションも、このような癖剣を遣ったのではないでしょうか。

 こうなると、明らかに左手がきちんと使える方が、立体的に技術の幅が広がります。

 この時のための備えとして、シンゲル・シナワリなどで左手を使う練習をしているのではないか、と推測されます。

 ラプンティのグランド・マスタルが、左手もしっかり練習しておくことが大切だと言ったと言う話も聞きます。

 エスクリマは脳トレの要素があります。

 これもまた、その一環の効果もあって、それが無意識の動作を身につけることにもつながっている気がします。

 ちなみに、うちの筆頭学生さんはもともと左利きの両利きです。

 この中国武術家にとっては奇跡のラプンティ・アルニスは、実は彼のために海を越えてきたものなのかもしれない。

小指の遣い

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 昔柔術をやっていたころ、指の使い方には一本一本分類がありました。

 現在学んでいる中国武術の経絡理論や勁論で言うと、それはやはり正しく持ち前の真価を発揮できるものであることが分かります。

 しかし、蔡李佛拳では基本の手形においてはそのような使い方をしません。

 虎爪掌を遣う時は指を開きますが、それも横方向のみで立体的には開きません。

 また、多くの時は指を揃えて用います。

 どうも勁を働かせるほど私は指が開いてしまう。しかし、それをずっと注意されてきました。

 最近、アルニスの時もついその手でやってしまうのですが、かなりの確率で突き指をします。

 原理主義として正しくても、実際の用法としては欠陥がある場合というのがあるということです。

 先人はそのために、あえて現在の仕様を設定していたのですね。

 本物の古伝の武術は完成されています。そこには個人の工夫が入る余地などはない。

 伝統武術の流名を名乗りながら、自己流を行っている人がいますが、そうするくらいなら現代格闘技をやればいいのにと思います。

 完成されていない武術をしても意味がない。

 それはただのブランド主義になってしまいます。

 本当のことをきちんと習い、それを体得してこそ真実を伝承することができます。

自我からの解放

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 強いとか弱いとかのためではなくて、自由になるために武術をやっている。というのが、私が教えられたことです。

 もともと、軍隊格技や総合格闘技をやってきて、勝敗や強弱ではないものをやりたいと思って中国武術をはじめたので、そのような前提姿勢はうってつけの物でした。

 強弱や勝敗にこだわっているなら、ストレートにそれにかなった物をすればよいと思います。

 中国武術やほかの民族武術を選択するのは、不適切であるうえに卑怯に感じます。

 正々堂々、敗北や自分の至らなさと向き合えるものをしてこそ、自分の強弱が計れるものでしょう。それを避けて気分だけかすめ取ろうというのは極めて話がねじれてしまっていると思います。

 中国の武術も、熾烈な生存競争の戦争での武術であった長い時代を経て、もっと高いところを目指す形で現代に至っています。

 少林武術に関しては、戦乱期はインド武術の時にすでに経ており、中国で再編成された折にはすでに禅の行として設定されていました。

 禅であるということは、精神の自由を得るための行為であるということです。

 強弱や勝敗という物に囚われていてはそれは叶わない。

 また、他人とうまく行くためであるとか、何かを獲得するためであるということさえ、本来は目的ではない。

 様々なことを付加してゆくのではなく、あるものを手放してゆくためにこの武術はあります。

 そうやって自分の内にある、自己を束縛するものから離れてゆきます。

 そのために、自分自身、その内にある物を整理することも必要です。

 先日ワークショップにこられたお客さんからあるご自身の感情の動きを伝えられたのち「これはエゴですか?」と訊かれました。

 それはもちろんエゴです。

 自分の心の働きはみなエゴです。

 ただ勘違いしてはいけないのは、これはキリスト教的、あるいは社会通念的なモラルの話をしているのではないということです。

 エゴというのは、意識の範疇にある自分自身の心すべてです。

 ただそう分類するだけです。

 意識なのか、無意識の肉体の反応なのか。

 そして分類したうえで、その両者の調和をとってゆきます。

 そうすると自由になれます。

 たとえばある時、怒りを感じるとします。

 それが肉体の状態に由来する物なのか、あるいは純粋に状況に対して自分自身の自我が怒っているのかを分類できれば、対応が整理できます。

 本当に純粋に事象に対して怒りを感じているのなら、それに対してどのような選択をするべきなのか検討ができます。

 どの選択肢が必要でどれが不必要なのかの判断がしやすくなるでしょう。

 繰り返しますが、社会通念の話はしていません。そのような物に囚われるのもまた不自由だと老荘では考えます。

 それが善か悪かは直接の問題ではなく、自分が本当にしたいのかしたくないのかを判断するのです。

 未熟な自我の垂れ流しレベルのことであるなら、するだけ損でしょうから、振り返って自分を改めた方が自由になれることでしょう。

 そうでないのなら、あとは自分がどのように怒りを解消するかに話は進みます。

 その場合に考えるのは、効率と自身の支出の計算です。

 すなわち、陰陽思想です。

 あることをするには必ずそれの反面がある。それが陰陽の思想です。

 怒りを爆発させれば怒りは解消するかもしれない。だとしたらそれをして、その結果起きるであろうことを支払いましょう。軽蔑や嫌悪やあるいは反撃などを引き受けることを想定してから行うと、より後がスムースでしょう。

 それを考えずにただ行うなら、それはただの未熟な自我の垂れ流しです。自分の支払い能力を考えずにカードで買い物をしまくる人と同じです。

 支払いの見積もりをしたうえで、納得して行動すれば自由になれるでしょう。

 多くのシチュエーションで、自分の支払いの中で納得した選択が行えます。

 それは、非常に自由でストレスが少ない人生となります。

 そして、自分の人生に納得することができます。

 そのようなことをして、古典では賢であるとか、徳であると言っています。現在使われているそれらの言葉とはニュアンスがだいぶ違います。時に聖という言葉が当てはめられることも珍しくありません。

 古人のいう賢、聖、徳とは、そのようにひょいひょいと人生をすり抜けて生きてゆける自由さを含んでいます。

 自分の自我だけに囚われてそれを主体に人生の選択をして結果支払いにがんじがらめになるという生き方からの離脱です。

 そのための具体的な方法、エクササイズとして、禅があり、その一部に武術があります。

 私も空手や剣術などいろいろな武道や格技をしてきましたが、その多くはむしろ自我への執着がありうると思って離れました。

 力んだり武張ったり、集中したりするのは、また違うことなのです。

 より多くのシチュエーションで、リラックスして生きられるために少林武術はあります。 

 私は趣味でダンスをしたり、パーカッションを叩いたりするのですが、よくそれらが柔らかいと言われます。

 強い弱いや勝つ負ける、うまいへたとも違って、柔らかいと言われれるのはうれしいことです(これもエゴですね)。なぜならそれは、自我への執着から離れてリラックスしているということだからだと思うことです。

 柔らかく、なめらかに生きる習性が付くと言うのが武術の効果なのでしょう。

 フィリピン武術を捨てなかったのは、それがなぜか自我を離れる要素があったからです。

 南方の人の生き方が反映しているのか、高速で動いているのですがそれはエゴで流行って能動的に動いているのではありません。

 リラックスした結果、身体がただ勝手に生きたい方向に動いているだけです。

 私の自我は自分が無数に手わざを繰り出している間、自分の身体が何をしているのかを把握していません。

 無意識運動に自分をまかせるということを学ぶ要素がアルニスにはあります。

 なので、エゴが強くて自分のすべてを支配しようとしている人は動けなくなってフリーズしてしまう。人間性が出ます(笑)。

 きっと、波に乗って魚を取ったり、海が運んできた物をありがたく食べて暮らしていた人たちの文化がうつっているのだと思います。

 流れに自分をまかせて、自我はただリラックスしてことが起こることにブレーキを掛けたりして邪魔をしない。

 それはまさに、荘子が推奨し続けてきたことそのものです。

 自己を束縛する自我から離れて、自由なライフをゆきましょう。

本日の練習

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 土曜日の稽古は、北海道から来てくれたかたと、名古屋から来てくれてる学生さんという組み合わせとなりました。

 そしてそれを見守る台湾拳法の私の友人……。これが横浜クオリティ。

 それぞれが別のことをしていて、名古屋の学生さんは双刀が課題で、その横ではアルニスのバストン・ドブレが。

 面白いので組ませて練習をしてみたりしました。

 中国武術と、その影響から成立したラプンティ・アルニスを一度に見れるのみならず、ならべて練習できると言うのは非常に面白いものになりました。

 それぞれ、用法や応用で学生さん達の理解が進みそうです。

 今日は参加者が少なかったのですが、うちはそれぞれやることが違うために、棍や暗器、奇門兵器まで並んで練習することになるでしょうから、その時の景色は壮観だろうなあと思いました。

 ラプンティ・アルニスに関しては、せっかく遠方から来ていただいているので、アウトラインを一気になぞるような形になりました。

 そうしないと、全体を貫くコンセプトが分かりにくいからです。

 この部分が、中国拳法の教室などでも抜け落ちがちな気がします。

 きちんと分かって体得できること、それこそが大切だと思いますし、そのためにも源流と発展形が同時に学べると言う部分も良い方に作用するのではないでしょうか。

今週末の練習

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 この週末もまたレッスン漬けでした。

 両方、人数は少なめだったのですが、遠方から来てくださる方達で、私のかねてからの希望の一つである、希少武術を地方にもお届けするということが叶うのではないかと思っている部分もあります。

 一人はカンフーの双刀、一人はラプンティ・アルニスを誠実に練習してくれました。

 カンフーの方の学生さんは、今年で二年目かな。うちの武術においてものすごく重要な課題となっている、小周天の完成を目指しました。

 勁を使った小周天がきちんと出来れば、内功の武術の土台が出来るというのが私たちの見解です。

 しかし、そのためには一年ほどを費やして、しっかりと段階を経て練功をしてゆかなければできません。

 とにかく偏差に気をつけて段階的に行います。

 そのために、小周天の準備段階と小周天まではここまででもしていたのですが、最後の段階までにだいぶ期間を開けました。

 しっかりと身体になじませてからやる方が安全だからです。

 その学生さんは身体療法の先生で、気功にも非常に能力の高い方だったのですが、その適正できちんと今回の練功を行った結果、本人曰く「気絶しそうになった」ということになったようでした。

 温泉に入ったような感じになり、気持ちよくなっていたようなのですが、どうもそのまま昇天しそうになってしまったのかもしれない。

 私も気功のおかげでおおむねいつもほんわりと気持ちよく暮らせているのですが、その感覚がだいぶ一気に開いたようでした。

 気功学で言うところの穴所がいくつか一気に開いたような感じだったことのようでした。

 それは、気血の働きが活性化したことを意味しています。

 これは身体の変化が大きい。そのために、一時的にずいぶん消耗してしまったようでした。

 そのためか、帰り道で躓いてまともに正面から倒れてしまったと言っていました。突いた掌は異常に内出血が起きていたそうです。

 毛細血管を走る血流がそれだけ活発になっていたのでしょう。

 これだから内功の武術は、いいかげんに伝えることが出来ないのです。

 きちんと管理者が見ていて、収功で収めるなどの調整をしてゆかないと、あっさりと偏差を起こします。

 彼の行っていた内功は、外見的にはただ座っているだけです。

 座っているだけで、内側が活性化して気持ちよくなって、下手したらそのまま気を失ってしまう。

 これが禅の武術なのです。

 動きを変えるとか、動きを鍛えるとか、そういうことではないのです。そういう技の世界ではないので見た目では分かりません。

 もちろん気合や精神論でもありません。

 身体の内側での働きを鍛えるのです。気功とは何かという課題に対して元神(本能)を鍛えるものだという答えがあります。

 手や足の動かし方の技は本能ではありません。その根本となる生命の活動そのものを整えるのです。

 動きそのものは別にフツーです。

 外見に出ないからこそ、きちんとした面談と管理が必要不可欠です。

 そのために最近、まずはアルニスから初めて大丈夫そうな人にカンフーを伝えてゆくという段階性を考案しました。安全が第一です。

 

 

 

 

 

 

  

拡散歓迎

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 うちはオープンな環境で練習をしているため、正式な学生さん以外の方の出入りが多いです。

 中には、体験したことをネット上で感想など上げてもいいですか、と丁寧に聞いてくださるかたがいます。

 厳格な師父などによってはそれは遠慮してほしいというようなこともあるのでしょうが、うちは全然OKです。その日の体験はその方の人生なので、お好きなように日記に書かれてほしい。

 もし、誤解を避けるために公開してほしくないことをするときには、事前にちゃんと言います。

 それ以外はむしろ、公開大歓迎です。

 再三ここにも書いていますが、現在私は自分の武功のために武術をしていません。

 それらは結果的に上がっていくものなので、 指針として大切にしても執着はしないというのが正しい教えとしてあるからです。

 そのため、いわゆる強くなる練功法も普段してなかったりします。別に強くなる必要がないので。

 そのような物は伝えなければいけないときに事前に復習してしこみなおして、伝わったら私自身はまたさぼります。

 私の主眼は、自分の武功よりも伝達の方に向いています。

 それが師父やマスタルとしての自分の役割です。

 そして、自分のエゴよりも真実や真理が広まることが何より大切だと思っています。

 なので、見識のある人が体験したことを拡散してくださって、あそこはここまでの段階に居る、というようなことを伝えてくれたり、あのやり方はあっちの山を登っていて他のやり方では向こうの山を登っていたけど高さ的には同じようなところにいくしどちらか決めたら混ぜるとどっちにも登れないので注意だよ、というようなことを提示してくれた方が、より多くの必要としている人に正しく届くと思います。

 公表の許可を求めてくれた人には、否定的な内容でも自由に書いてくださいとお伝えしています。

 みなさん時間や労力を支払って情報を集めてから来てくださるので、無駄足を運んでいただきたくもないですし、良くないところは知ってもらった方が、より良い物を求めている人には有益な情報になると思います。

 自分個人の利益でなく、公益への還元を考えてこそ、一門の指導者としてなりたつものだと考えています。

 ライフスタイルとしてのマーシャル・アーツを行っている人間として、自分自身のよりよい生き方を常に意識してゆきたいところです。


脱力のパンチと勁の打

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 ラプンティ・アルニスと、蔡李佛拳を、同じ場所で二班に分けて練習することを始めたのですが、アルニス班に来てくれた方もバストンだけでなく徒手もやりたいとの希望だったので、打撃の練習を合同で行いました。

 私のアルニスのマノマノ(徒手)は、純粋なラプンティのモンゴシという徒手スタイルではありません。

 今回はそちらを体得する時間が無かったので、さわりを習っただけで次回の課題としています。なので、マノマノはモダン系の、オーソドックスな「エンプティ・ハンド」、つまり、バストンを持ってればアルニスだしナイフを持っていればナイフ術だという、原則にのっとっただけのベーシックなものになります。

 これはある意味で、私がボディガード時代に武術を辞めるきっかけになった物でもありました。

 格技や武道で強くなりたいなどと思わなくても、これをしていれば後は経験で実際の闘争の現場ではたいていどうにかなるという、即効性のみを追求した物です。

 その中で使っていたパンチが、私が「肘を入れる」と言っていた物です。

 実際にひじ打ちをするということではなく、脱力して撃ちます。

 これを覚えるとバストンを振るのと同じように素手を使うのに役立ちます。

 このやりかた、蔡李佛拳では重勁と言ったりもします。

 拙力を抜いて、腕の重さをうまく活用して撃つやり方です。

 一般に思われている蔡李佛の印象というのはこれでしょう。

 しかし、これは脱力をするまでの段階で、放鬆を体得したらそこに本当の勁を徹します。

 その段階が鉄線功の段階です。

 それが出来て、他の内功で内側の力が遣えるようになると、打たれたときに車に当てられたような重さが内側に浸透する発勁になります。

 今回の練習では、みんなでそれぞれの打撃を撃ちあって質感の違いを確認しあったのですが、発勁は受けた人が驚いたり跳んだりするのですが、脱力パンチでは痛い、と嫌な顔をされます。

 脱力段階はあくまでまだ術になる前の段階なので、即物的なパンチの痛さが伴います。

 この段階の物を術だと勘違いしないでほしかったので、あえてしっかりと説明しました。
 アルニスで平馬の立ち方や神経系のトレーニングを積んでから、希望がある人にはこの内側の練功を提供します。 

 やってもやらなくてもよいものです。

 ただ、すでに内勁を使っている人がラプンティ・アルニスをやると、実は勁を澄ますとても良い練功になります。

 これはやはり、中国武術から入った基本要素が、中国武術の兵器と同じように働いているからなのでしょうね。

 ただ何もせずに平馬で居ろと言われると精神的にきついですが、アルニスのサヤウをやりながら立っていると、気持ちが違う方に向かって存外楽に耐えられたりします。

 これもまた、ある種の意の操作で、気功の一種ですかね。

武術を活かしてくれる人の募集です

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 ちょっと長くなりますが、武術で生きてみたいと少しでも思われる方がいらっしゃったらぜひ聞いてください。

 我々SMACでは、以前から支部長になってくれる方を募集していましたが、この度、その募集を拡張いたします。

 ただの支部長ではなく、これまで武術の経験はないけれども、武術をやってみてこんなことをしてみたい、という案のある方に、我々の武術を支部長待遇でお譲りいたします。

 私自身のこれまでの軌跡が、少林武術の中にある心意把という物の横への広がりである心意拳、および形意拳の学習と、そこから南に進んだ南派少林拳の伝統の保持であり、さらには昨今、フィリピン武術とのつながりまでを、フィールド・ワークにて確認、および伝系を受け継ぐことができました。

 地理的に言うと、シルク・ロードからフィリピンまでの長い道のりのアウトラインを掴んだ感じです。

 このような研究に、フィリピン武術で15年、中国武術で10年以上を費やしてきました。

 それにしても、僥倖で限りなくラッキーだった結果です。

 もし、個人でまたこのようなことを一からしようとすれば、それ以上の年月やさらに莫大な経費、労力がかかってしまうことは想像に難くありません。

 しかし、門外の人間ではなく、門内の継承者として、奥秘に隠されたものまでの教伝を受けるためには、どうしてもこれは必要なものでした。

 とはいえ、同じことを次の方が繰り返してはここから先のことにいつたどり着けるのかが見えてきません。

 そこで、私のいま至っているところまでを、短期間、格安経費にてお渡しいたします。

 それを手にして、次に引き継いでくれる方を求めています。

 全伝を受け継いで後継者になれということではありません(もちろんそういう方はそれで歓迎いたします)。きちんと外部に通じるまでの実力をステータスを手渡しますので、それを持って外に打って出て行ってほしいのです。

 どのような形でかはその人次第です。

「ヨガのインストラクターをしているけど、それが少林寺に渡ってどのような気功と武術になっていったのかを自分の中で研究して、教室で広めたい」や「フェンシングの選手をしていたけど、大航海時代にフィリピンに渡って土着化したアルニスを体得して比較検討して研究したい」というような学術的な物でも良いと思いますし「引きこもりの子供たちの運動不足を解消するためにアルニスを使った活動をしてみたい」ですとか「カトリックの教会に居るのだけれど、礼拝にくるフィリピンの子供たちに国技を教えてあげたい」というような社会的な物でも素晴らしいと思います。

 一般の道場やジムなどで、いっぱしの段階になるまでのことを考えると、まずは初段程度になるために二年から三年、支部長補佐くらいに自由が利く立場になるまでに十年近くかかってしまいます。それでは、そのころにはもう体が万全ではなくなっていたり、身動きがしやすい環境には居なくなってしまっているかもしれません。

 経済的な面で言うなら、道場によっては入会金に数万円、年会費に一万円、道着に一万円、毎月の月謝に一万円と、はじめるのに五万円ほど必要になるところは少なくありません。

 道具が必要な武術なら、三万円から十万円ほどがそれに追加されます。刀などを使う物なら、中古車が買うくらいの金額が必要になることもあります。 

 そうなるとどうしても、親御さんが世話をしてくれる若い人か、引退した高齢の方の趣味になってしまう傾向が強くなります。

 その反面で、後継者不足の流派が多いと言うのが現実です。それはあまりにも、人がもったいない。

 技術と立場はこちらでご用意いたします。お人柄と行動力を分けて欲しいのです。お金はいただきますが、破格に抑えられるようご相談にのります。労力を支払ってください。一緒に活動してゆきましょう。

 武術で人生を冒険して行ってくれる、マーシャル・アーツ・アドベンチャラ―を求めています。

 面白いアイディアをプレゼンしてください。

「外部と行き来の難しい離島で趣味の教室を開きたい」や「人里離れた牧場のペンションで暮らしているのだけれど、そこにアルニス・ヴィレッジを作ってみたい」というような個人的な物でももちろんOKです。

 武術の可能性を開いていきたいと思います。

 ぜひ、こちらまでご連絡ください。

第一号

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 昨日発表した企画の第一号さんのプロジェクトが進んでいます。

 ぜひご覧になってください。

 https://twitter.com/lapunti_hokkaid 

 北海道の大地に第一号のラプンティ・アルニスの種がまかれました。

 一緒に練習してみたいという方はぜひお問い合わせください。

 

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 先日、ある程度上のレベルの気功を行った学生が気を失いかけたという話をかきましたが、そのようなことは身体開発をしてゆくと多々ありえます。

 自分自身の土台が変わってゆくので、それまでとは価値観の変化を余儀なくされます。

 その経過で、何が正しくて何があり得るのかを判断する基準を見失うようなこともありえます。

 それまでの身体感覚にしがみついていては変化に自我がついてゆけないでしょうし、かといって感じられる物をなんでも都合よくとっていては妄念や願望に惑わされて魔境に至ります。

 私は平素、夜が明けると明るさで自然に目が覚めるのですが、先日も同じように瞼の裏に光を感じて目覚めたところ、真夜中でした。

 テレビや電灯もついていません。時計もデジタルではありません。

 珍しいこともあるものだなと思ってまた目を閉じて眠ろうとすると、また光に満たされました。

 まぶしいな、と思って目を開けると闇です。別に外からヘリコプターで照らされているというようなことはありません。うちの窓の外には車道も無いので通りすがりの車に照らされて居るわけでもありません。

 何度か試したのですが、眠ろうとするほどに明るい。

 これは、気のせいです。

 人間の深層にある機能を活性化させるのが気功です。

 その過程で、感覚の記憶というものが非常に活用されます。

 冷感や熱感のような、身体がもっている記憶を意図的に呼び起こすことで深部にアプローチする方法を学んでゆきます。

 そのためにこそ、実際には起きていないことも感じられるようになり、現実との区別がつかなくなると迷妄の世界にさまよいこんでしまうのですが、そのような場合に指針となるのが信念、すなわち思想です。

 気功を行うためには、必ず禅か老荘の思想を持って取り組まなければなりません。

 それは、このように身体が現実に起きていないことの記憶をフィードバックして再生しはじめたときに、大変必要になります。

 この時の私は朝の記憶が活性化して身体が自然にいつもの夜明けの太陽の光を意識上で再生してしまっていたのですが、もし私がクリスチャンであるなら、このようなことは神からの啓示だと思ってなにがしかの意味を見つけてしまうかもしれません。

 だとすると、本当にその時自分が見つけた意味は意味を持ってしまいます。

 これは意味の創造、あるいはねつ造です。

 自分で自分を神の一部にしてしまっている。

 もちろんそれが悪いことだとはいいません。ただ、気功ではないと言うだけです。

 正統の気功、内功武術で言うなら、そのような物はよくある気の成長段階での現象です。

 そういうことに、精神的な意味はない。

 あくまでも自分の肉体の成長段階における一過程であり、世界からのメッセージなど存在しない。

 そのようなときに、無、虚、無為自然、天に仁なし、という禅やタオイズムの根本テーマを持って解釈ができないと、正道から転がり落ちることになります。 

 そうなってしまうと、火を焚いて収めることを知らぬが如し。暴れまわる自分の体の感覚のままに操られてしまい、欲求に端から振り回されて生きてゆくことになってしまいます。

 自分の自我、理性で自分を制御できない人生です。

 気功では自我と肉体という陰陽の調和を目的としています。片方の暴走は本道を外れてしまっている。

 人間の内面のことを精神と言いますが、これは精と神という二つの言葉で出来ています。

 中国語では、神とはいわゆるGOD、神様の意味ではありません。英訳するならSPRITでしょう。

 中国では神は仙人よりも下位に居る、妖怪や妖精のような存在とされます。

 同じような物に、魂などもありますが、魂も精も神も、人間の内にもある要素です。気の一部だと考えて問題ないと思います。

 精は腎に宿り、陰の気です。

 神は心臓に宿り、陽の気です。

 この二つが、精神とされていて、陰陽の関係にあります。

 偏れば躁病や鬱病になり、釣り合いそのものが狂えば躁鬱病となるとされています。

 すなわち偏差ですね。 

 眠っていた私を包んだ光は、陽の気の活性化に過ぎません。ただの肉体のバランス上の現象で、形而上の意味なんて存在しません。

 そこに夢中になってもっと光を感じようとすれば、それはいくらでも出来るでしょう。そして偏差へとまっしぐらです。

 陽が目立って活性化したら、必要なのは陰で調和を取ることです。なにせ陰陽思想というくらいですから。

 それができてこそ気功が出来ているということであり、気を遣えているということです。

 そのような基礎方針を基にきちんと運営してゆくことで、総合的に私の心身は調整され、気は強くなり、武術は向上してゆくはずです。

 このために、内功を高めようとすれば必ず思想というコンセプトを確固として保持しなければなりません。

 さもなくば、設計図もなく部品を組み立ててゆくような作業に終わることでしょう。

 効用の無い物ならそれでもいいでしょうが、発熱機関や発電施設のような物をそんな風に扱えるでしょうか。
 だからこそ私は、きちんと古典を学ばずに気功を行ったり、オカルトやスピリチュアルの好きな人がいたずらにまねごとをすることを常に忌避しています。 

 高い効果のあることを深いところで行うため、必ずきちんとした師父の元で正しく行わないとなりません。

一月のアルニス・サンデーのお知らせです

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 来年一月のアルニス・サンデーは、8日と29日に行います。

 山下公園にて朝の10時からお昼くらいまでです。

 

 メンバー 投げ銭

 外国人  投げ銭

 一般   1500

 

 よろしければ遊びに来てください。

自由と解放

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 今となっては、エスクリマというのはどうしても軍隊武術や護身術としての側面から語られることが多いようです。

 私が学び始めたころはそうでもありませんでした。どちらかというと、フィリピンというあまりよく知らない国の民族的な武術という印象が強く、タイやベトナムの刀術と似たような印象を持っていました。

 まぁそれだけではなく、私はストリートの物として習ったので、もちろんそういうアーバンな印象を持ってはいたのですが、やはり原理的な物としてはトライヴァルな物なのだという前提はありました。

 たとえるならば、サーフィン・カルチャーにおけるサモア文化のようなといいますか。

 しかしいつの間にかその印象はすっかり世の中から薄れていって、何やら近代戦の側面が前面に押し出される形でセールされているように思います。

 これは商業的な戦略による誤解なので、出来れば私はそう信じられて欲しくないと思います。

 おそらく、エスクリマを土台にアメリカで創作されたカリの人たちが言い出した物であったり、軍隊用にカスタマイズされたエスクリマであるピキティ・ティルシャ・カリ(これもカリですね)や、現代式に技術を統合したモダン・アーニスにおける現代要素の部分が強調された結果なのでしょう。

 もともとのエスクリマというものはそういう物ではなく、もっと土着的な文化だと思っています。

 大航海時代から続いた剣士たちの時代という物の遺産を引き継いでいる家伝の技術としての精神のようなものをもっと大切にしてゆきたいと思います。

 それが家伝系の武術を手渡された人間としての義務であるように思います。

 私にラプンティ・アルニスを与えてくれたグランド・マスタルは現職の職業軍人でしたが、けっして軍隊式の方針や技術をアルニスに混ぜるようなことはしませんでした。

 私自身も、軍隊武術に関わってきた経歴があり、ボディ・ガードの職を生業としてきましたが、それもアルニスには無関係です。

 素人の兵隊さんごっこではなく、本物のプロフェッショナルであり、本物のマスタルであるからこそ、ここを明確に分けることが出来るのだと思います。

 どちらも中途半端なら、きっと足りない物を混ぜ合ってしまうことでしょう。

 しかし、きっちりと分けることが出来るところにこそ、誇りがあるのだと思います。

 その心の部分をしっかりと引き継いでゆきたいのです。

 ミリタリー・オタクやナイフ・マニアに兵隊さんごっこを教える気はありません。それはビジネスとしてはシェアがあるのでしょうが、私には恥ずかしすぎます。

  そんなことをして、もし万が一何か事件が起きたり、あるいはたまたま年末の職質でナイフの一本でも発見されてスキャンダルになったりしたら、実話雑誌辺りに「殺人練習サークル」などと騒ぎ立てられて生涯恥を忍んで生きてゆくことになるでしょう。

 実際、私の知ってる人間でも酔って違法携帯していたナイフを振り回した自覚のない自衛官がかつていて、必死でナイフを取り上げて隠したことがありました。職業として訓練を受けている人間でさえその程度のありさまをさらしたりしかねないのです。

 ましてやコンプレックスにねじくれた素人など。

 我々はあくまで、民族に伝わる伝統として行ってゆきます。

 マニラのエスクリマは独立戦争や太平洋戦争時のゲリラ戦の技術ではないか、という声はあるかもしれません。

 それはまぎれもない事実です。

 しかし、それはまずもともと現地に剣士たちという職業の人々がおり、その剣士たちの時代に外部から戦争が訪れた、という経緯の上にあったことです。

 そして、外部からの圧力に対して自由と解放を勝ち取ろうと言う行動と、軍事行動そのものを目的とした訓練とは意味が違うと私は思います。

 明言します。我々のグループでは軍事訓練のまねごとのようなことはしません。

 なので、性的コンプレックスをこじらせたオタクが眺めてニヤニヤしているようなダミー・ナイフの使用は禁止します。 

 人が人として自由に生きてゆくために行われてきた普遍的な文化としてのエスクリマを受け継いで、次の世代に引き継いでゆけるようにしてゆきます。

 そのための国際交流活動にも力を入れてゆきたいと思っています。

 なので、男根コンプレックスがダダ漏れになっているような迷彩ファッションやカストロ・パンツの着用はお断りします。

 世界の各地から来ている人達にとって、そのような物が一体どのような意味を持ち、どのような記憶につながっているのかを想像できない人間にはまず己自身をよく考えなおすところから初めていただきたく思います。

 幸運にも現状たまたま平和な国に生まれ付いた我々が、現実に深刻な環境にある世界情勢上の紛争を面白おかしくエンターテインメント扱いするというようなことは受け入れかねます。

 現代の日本の社会においても、自分自身の内にある拘束を離れて精神の自由を求めている人達がいらしてくださるのをお待ちしております。

 

ローグ・ワン・スター・ウォーズ・ストーリー 注・ネタバレ

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 スター・ウォーズのサイド・ストーリー、ローグ・ワンを観てきました。

 以前よりルーカスのサーガは彼が少年時代に見ていた武侠映画を下敷きにしているという説を唱えています。

 悪の帝国に支配されて、本拠であった寺院を崩壊させられて離散した宇宙の守護者、ジェダイの設定は、清朝に焼き討ちにあった少林寺の物語を土台にしているのだと推察しています。

 有望なジェダイであったにも関わらず、敵方に裏切って仲間を修行中の仲間を皆殺しにしたアナキン・スカイウォーカーは、清朝に寝返って少林僧を虐殺したという白眉道人の物語とそっくりです。

 本編でのルーク・スカイウォーカーが、破壊された寺院の痕跡を旅して秘伝を探しているというのも、実に少林拳的なお話のように感じます。

 その解釈で言うと、フォースというのは禅における法やタオイズムにおける道となります。

 実際、作中で語られる言葉の多くはタオで解釈すると納得のいくものとなります。

 フォースは宇宙のすべてに充ちている、というのは気そのものであると感じられます。

 また、ルークの先達であるオビワン・ケノービは屍解仙となり、左道であるシスになった物は身体が病んでゆくというのも、魔境と偏差を意味しているのでしょう。

 そんな物語だての中で、今回のローグ・ワンには焼き討ちにされたジェダイ寺院の寺僧だったという盲目の人物が登場します。

 彼は寺が焼かれてからは辻で物乞いのようなことをしています。

 武侠小説好き、および世界の中華系の人々はニヤリとする設定でしょう。これすなわち、丐幇です。

 丐幇と言うのは乞食の組合で、中国では昔から最強の秘密結社であると言われてきています。

 と、いうのも、遊行僧や落ち延びた将などが身を持ち崩した後にこの組織に身を投じていると言われているからです。

 そのために、この組織には秘伝の武術が継承されているとされています。

 この乞食坊主を演じているのが、武侠俳優ドニー・イェンです。素晴らしい狙いすましたキャスティングでしょう。

 武侠小説では、盲目や体が不自由などの人物には達人が多いのですが、これはおそらく荘子の影響でしょう。

 身体が不自由な物は、身体の内にタオが働いているという故事が荘子にはよく見られます。

 ドニー・イェンのキャラクターも武術の達者でスゴイ最先端の装甲で身をよろった帝国兵を杖一本でバシバシ倒してゆきます。

 個人的には帝国兵の鎧、歴代鈍器に弱すぎると思ったり、ドニーのアクションが中国武侠系ではなくてハリウッド式のエスクリマ風なのが不満ではあるのですが、丐幇で杖というのはまたニヤリとさせられます。

 丐幇の有名な武術に、打狗棒という物があると言われているからです。

 これは残飯をあさるときに野良犬と競り合いになるため、それを追い払うために持っている杖の術だと言われています。

 このドニーさん、ジェダイにはなれなかったと言う人なのですが、フォースがあると思わせる描写があります。

 最初の殺陣のシーンだけは耳を澄まして音で敵の位置を察しているような描写があるのですが、のちのシーンでは空中を飛来する敵機を銃器で撃墜し、墜落先をコントロールして地上を爆撃するという超人技まで披露しています。

 この手の技、EP7ではポー・ダメロンがのみならず、フォースの適正を象徴するものとして全編に見受けられます。

 スター・ウォーズのアクション・シーンの特徴に、撃墜されるのではなく、自己による墜落というのが多いというのがあるのですが、それが自然に環境に適応できる能力、すなわちタオとの調和として表現されているのだと思うのです。

 平たく言うと直感ですが、ルークはそれを体得するために修行をしていました。死地に陥ったときに思い切って手を放して流れに身を任せるというのはタオの生き方そのものです。

 今回のドニーさんも、銃弾飛び交う中をマントラを唱えながら直進して行った結果、無傷にわたりきるというシーンがありますが、タオのままに生きるとはこのようなことだとされています。

 そのドニーがジェダイではなかったと言うのは、おそらく、道教で言う仙骨が無かったという物なのでしょう。

 そして、なければないでよいのです。

 持ち前のままに生きることが最善とされています。

 MAY THE TAO BE WITH YOU。

 

 

 


年末年始の特別トライアル・レッスンのお知らせ

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大乗の武術と小乗の武術

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 武術には、大乗の物と小乗の物があると聞いたことがありました。

 これは、けっして優劣のことではありません。

 なんでも大きければよろしいという物でもないのでしょう。

 大乗の武術とは不特定の人が同じレギュレーションで色々なことが出来るように作られている物です。

 少林拳がこの代表でしょう。

 少林僧になれば、人種や体型は問わずに学べるものだったはずです。

 対して、小乗の武術というのはもっとドメスティックな特定の環境の中で必要な形にできている物です。

 中国武術で言うなら、○家拳や○氏○○拳などと言う物がそうです。

 あくまで本来はその家の収めている地域の治安を維持するために伝えられてきた物で、その地域の環境で役立つように構成されています。

 狭い都市戦で防衛を主としているのか、あるいは海岸線沿いの都市での海賊の襲撃を打ち払うために行われているのか。

 馬がメインの砂漠の都市で、海戦用の技術が伝わっていても必要はないでしょう。

 その、必要のない物が備わっているのが大乗の武術です。

 誰かにとって必要が無くても、別の地域、別の条件では必要になるかもしれない。

 それを想定して、技術の可能性を追求しています。

 私たちの蔡李佛拳は、大乗の武術です。

 失伝の危機に瀕しかけた少林武術を統合して遺そうという環境で本来は生まれました。

 そのため、蔡李百套と言う言葉が生まれたくらい、沢山の兵器や拳法の套路を保存しています。

 実際に百を超える数が伝わっています。

 その後にそこから派生した私たちの鴻勝館派は、太平天国の乱での練兵様に再編された物です。

 乱戦の技術を中心とし、合戦で使う兵器をメインとした戦い方とその練功を第一の目的にしました。

 そういう意味では、小乗化したと言えるかもしれません。

 しかし、その下地には大乗である少林寺の拳法の流れがあります。

 少林寺というのは、学問や医療などの人々を救うための技術者の養成所であり、修行が終わった僧は下山すると遊行して各地を遊行しては救世の活動をしていました。

 薬や鍼、気功などの知識や調理法を伝えたり、害獣や盗賊の出没地では武術を教えていました。

 いまでは武術と禅ばかりが有名ですが、それらはそういった活動の一端でもありました。

 なぜか日本の仏教からはこのような活動が失われていったように見受けられますが、実はまだ中国仏教がダイレクトに伝わっていた時代の空海上人に関しては、行っていた形跡が伺えます。

 と、いうのも、日本のあちこちに空海に由来すると言われる温泉や井戸などがあるからです。

 これらはおそらく、中国の仏教で学んできた学問で、灌漑や治水をしたことの痕跡なのではないでしょうか。

 太平天国の乱への参戦もそのような活動の一つであったとみなすならば、武術の技法としては小乗的な部分があったとしても、本質はやはり大乗の物であったと言えると思います。

 蔡李佛の名に入っている蔡家拳、李家拳などは両家の私的な財産であり、小乗であると言えるでしょう。

 彼らの家とまったく関係のない場所や時代のことは想定していないと思います。

 それよりは、実際に必要ないわば家業の一部であるところの方が必要なところでしょう。

 エスクリマで言うなら、総合流派であるモダン・アーニスなどは大乗の物でしょう。

 あらゆるエスクリマの技法を取り込み、さらにそれらを応用した技術の開発をし続け、さらにはそれらを最も使いやすい心兵器の開発までしています。

 それに対して、軍隊用のPTKや私たちのラプンティ・アルニス・デ・アバニコは小乗です。

 特定の目的を特定の人だけがやるように作られています。 

 これら小乗の良いところは、目的と手法が明確化されていることです。

 特定の技術を持って特定のことをするというコンセプトが明確であるため、理解がしやすく体得への道がまっすぐです。

 あれもこれもというところがない。

 なので、何をするための物なのかわかりにくい部分が少ないし、出来ないところも多くないことでしょう。

 逆に、大乗の物は大衆化が進んで本来何をする物であったのかが見失われやすいところもあります。

 柔道などはまさに、それまでの特定の武装支配階級の専門職技能であった術を一般化した大乗の物であったのでしょうが(それを武道と名付けました)、すでに創始者の嘉納治五郎が存命の内には選手の試合を見て「これは私の創始した柔道ではない」と言われるくらいに多様化してしまって本質が失われていたという話もあります。

 柔道と言えば、関係の深いブラジルの柔術もこの大乗、小乗の区別が明確化されていて面白い物があります。

 元祖であるグレーシー柔術は蔡家拳、李家拳などと同じく家伝武術として創始された物で、紳士同士の一対一の決闘というものを目的として発展したと言います。

 そのため「あんなに寝技に持ち込んで、相手が複数だったらどうするんだ」という質問にはまず「紳士同士の決闘でなぜ多人数戦となるのだ」という返答が返されます。

 当然、グレーシー柔術は家伝の武術なので、外の人間には全伝が容易に知らされることはありません。極めて秘匿性が高いことで知られています。

 その全伝が明かされていない人々がやりだした物が、ブラジリアン柔術と呼ばれています。

 これは本質的にスポーツ競技として発展しており、様々な体形の人がそれぞれにわかれた階級で取り組むことが出来る試合が盛んです。

 そこにおいては、ポイントを取るための技があり、ルール上否定されている展開への対応はありません。

 ルール内の保護下でだけ可能な複雑化された技が開発され、さらにそれに対する返し技が研究されています。

 グレーシー家の人々が言う紳士同士の決闘であれば、けっして使われることの無い技などが発展しているようです。

 紳士同士の決闘では、加勢はありませんが殴ることや噛みつくことや睾丸への攻撃は認められています。

 逆に、そのような技を使えばする必要のない技が、大乗の武術では純粋に技術として研鑽されています。

 しかし、だからこそ煩雑化、多様化しすぎて把握するのに長時間を要する領域が技術の範囲に広がっているものだと思われます。

 それに対して、小乗の物はシンプルです。

 昔、なんの技術も持たない素人格闘家が「グレーシーは弱い。同じ技しか使ってない」と恥ずかしげもなく語ったことがありましたが、そうではありません。同じ技で勝てるように稽古を積んでいるのです。

 名人芸や職人技というのはそのような物です。

 それに対して、大乗の物には学者の物の趣があります。

 個人的には、大乗の物に取り組むにしても、まずは小乗の物をある程度学んでからの方がはかどるのではないかという感があります。

 エスクリマの中でもっとも知られた物に、ドセ・パレス・スタイルがあります。

 これは、そもそもが剣士たちが居た時代が終わりに向かっていた時に、滅びゆく剣術を残そうということで、子孫に限らず家伝の小乗剣術を一般に継承させようと持ち寄った剣士たちによって作られた剣術スクール、ドセ・パレスに由来しています。

 しかし代が変わって完全に剣士たちの時代が終わりに入ったころに風雲児であるカコイ・カニエテが後を継いで大幅に中身が変わりました。

 当時行われていたバハド(デス・マッチ)で勝つための技術体系に作り替えられたのです。

 その過程で、不必要となった剣術のスキルはどんどん捨てられていったと言います。

 しかし、それでも根底には大乗の武術の思想が流れていました。

 ドセ・パレスは一つの流派ではなく、いくつものスタイルのエスクリマを併修できる施設として存続したのです。

 目的はバハドですが、それでも戦い方の多様性に目をつけていて、同じバハドでもこんな戦い方もできるしこういう組み立ても可能だ、といくつも戦い方のスタイルをスクールに内包していました。

 それぞれが目的に合わせた別のスタイルとして、現代でも学ばれているようです。

 大乗の武術を学ぶには、小乗の武術で基礎を作ってから入るのが早い。

 しかし、小乗の武術は必ずしも誰もが上級まで学ぶことが出来るとはかなわない。

 そんな中で、一体どうすれば本物の正統な武術をきちんと体得して継承することが可能でしょうか?

 もちろん武縁や運のような物は必要です。

 才能だ、という人も当然いるでしょう。

 けれども私は、人となりだと思います。

 これは中国武術での後継者選びでよく言われることです。

 確立された人格なくして、流儀武術は継承されることは無い。

 私はそう思っています。

 少なくとも、私の周りの若手継承者にはその傾向がよく見られます。

 逆に、調子がいいだけの才子は大体継承者から外されて放り出されます。

 才能がなくても、人の倍修業期間を設ければ大体どうにか形はつくでしょう。

 しかし、人格はどれだけの時間をかけても変わるとは限らない。

 生き方というのは、武術をする者にとって本当に重要な物だと思います。

 そして小乗の武術というのはその人を守る物であり、大乗の武術とはその生き方を多くの人に伝えてゆくものだと思っています。

 そのため、私たちSMACでも、小乗であるアルニスを学んで基礎を身につけてから、大乗の蔡李佛に入るように設定しています。

なぜあの人は継承者なのか

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 武術家、という言葉があります。

 みなさんは一体どのような人が武術家だと思われますでしょうか?

 英語で言う、マーシャル・アーティストを日本語訳すれば武術家にもなりますが、やはりmartial artistと武術家ではちょっと言葉の肌触りが違う気がします。

 では、土日に道場に通っている勤め人はどうでしょうか。

 これもやはり違う気がします。

 それで熱心に試合に出ているなら格闘家という言葉はわりに合う気がしますし、武道家というのはなんとなく生き方として武道家で仕事はどこかに勤めている、ということで納得する感じもします。

 しかし、武術家。

 なんとなく武術家というと草庵に隠れ住んでいて鎖鎌でもぶら下げて薄笑いしているような情人離れしたような雰囲気すら感じられるような言葉です。

 そのような、世間人とは違う何かを感じられるのが武術家という生き方の人々だと思うのは私だけでしょうか。

 あるいは。

 そのような偏見を取っ払って見てみるなら、二段、三段というような現代武道の段位というよりも、○○流免許皆伝、というような、継承者として認められた人というのが武術家っぽいと感じる、という辺りは如何でしょう?

 しかし実際のところ、現代においてはそのような流儀武術の伝承者はものすごく減っています。

 人工が少なく流儀自体が失伝しかけているにも関わらず、後継者選びも誰でもよしとされるわけではないので、これは深刻な問題となっています。

 その一方で、昔から一人で何流派も師範であると肩書を列挙している人もいますし、またひどく若いのに年配の先達を追い抜いて継承者に選ばれている人もいます。

 どうしてこのようなことが起きるのでしょうか?

 前者に関していうなら、中には余命僅かな老先生のところに取り入って死に水を取りながら方やで流儀の資料を懐に収めてゆく、通称「流儀泥棒」というような人のうわさもささやかれています。

 挙句の果てにはそれらのきちんと体得もしていないような流儀を、身につけていないだけに掛けてる物を足し合わせて補って自己流を創作するような人もおります。

 その手の人達がやっている流儀を見ると、たいてい同じ物であったりします。

 となると、その流派はもうずいぶん前から正伝の伝承その物が怪しかったのではないかと思われる部分もあります。 実際、明治、昭和のゴタゴタでずいぶんの流派が失伝し、あるいは再編成されて原型をとどめている物はとても少ないと聞きます。

 後者の、若くして先人を追い抜いて後継者になったのケースは、これとはだいぶ違います。

 例えば、先代が70代半ばで伝系を譲るとき、それが若いころから一緒に稽古して可愛がってきた弟弟子であったりすると、もう60半ばであったりします。

 となると、もう十年したらまた次の後継者を選ばなければなりません。

 そこで、若くて見込みのある者が居ると、一気に流儀を若返らせ、次世代への拡大を期待してそこに譲ると言うことがありえると思います。

 そのような、若くして正統に選ばれた継承者が、私の知って居る人々にも何人もおります。

 では、若くして選ばれる傾向とはどのような物でしょうか?

 それはおそらく、人となりです。

 その流派に真摯に取り組み、誠実に技術に向き合って自覚をもって門人で居ようとする積極的な誠実さが最大の基準ではないかと思っています。

 良くも悪くも稽古をしているのが日常になってしまい、道場での態度も気軽な物になってしまっているような50、60のベテランが後継者から外され、若き後継者の後見を任されるのはそのような理由がありえると思います。

 武術の継承者として任命される以前から、自分が思う武術家としての生き方をしていて、それを師に認められた者が印可を出される、と解釈してもよいのではないでしょうか。

 そうすると、そのような生き方をしている人は頼りがいがあるので、勉強のために通っていた他の武術の会でも一目置かれ、そちらでも後継を任されるというようなことがあります。

 かくして、若くして数流の師となるという人物が生まれてきます。

 これは前述の「流儀泥棒」とはだいぶ違います。

 私の友人は名門三流の師ですが「自分の方から継ごうと思ったことは一度もなかった」と言います。

 古人の生き方というのは取り換えが効かないものであるため、武術家らしい誠のある生き方をする人間は貴重な存在なのです。

 これまで他人事のように書いてまいりましたが、私自身もまた二流を継承、指導を公言している身です。

 そのほかにも、もう二つの流派で指導者となるよう要請されていましたが、現在はどちらも辞退しております。もし並行していたら四流の若手師範として、流儀泥棒の嫌疑をかけられた目にさらされていたことでしょう。

 なぜそのように、先生方から言っていただけたかというのが、先に書いた生き方の部分だとしか思えないのです。

 私は決して大男でもないし、運動神経に恵まれた才能のある人でもない。

 むしろ体力は少なく、コツコツと分析、反復して積み上げてゆくタイプです。

 もっとも、それでもプロになってはいるのだから一定レベルのところまでは自分を引き上げてきたとは思うのですが、プロとして一流になるような才能が無いことは確かです。

 私にあったのは、きちんと向き合って誠実に努力をしてゆけること、というそれだけのことです。

 私は好きでダンスも学んでいたのですが、ダンスというのは嫉妬ややっかみ、ポジション意識の横行する女性の社会である傾向が強めです。

 その中で、ヘタクソで才能の無い私が先生に目を掛けてもらえるのを不思議に思った人が居たようでしたが、なぜあんな者に目を掛けるのかと質問したところ「彼はその日に習ったことは出来るようにならないけど、全部記録して次の時には絶対に一つは出来るようにしてくる」と先生は答えていました。

 その時に得意げに出来てすぐ忘れられるような才子ではなく、きちんと記録して形に積み上げることの出来る人というのは、ダンスではなく、武術の世界の後継者としては望まれる形なのではないでしょうか。

 このように着実で地道に、私は日々の自分の造作を仕上げてまいりました。

 その結果の一つが、フィリピンでの継承です。

 私自身はただ、十五年ばかり淡々とただ好きでやってきた物を、現地でどうやっているのか体験してみたいというだけで貯金して旅に出ただけなのですが、向こうのグループで動きを見て「こいつはおかしい。出来すぎる、グランド・マスタルに引き合わせろ」ということになりました。

 その結果、いくつもの質問をされてブラザーとなる面接を受けた次第はここに書いた通りです。

 私自身は積極的に自分がカンフー・マスターであることを喧伝したり動作を見せたりはしていないのですが、教わった動きの再現から「お前ちょっとおかしい。何かやってるだろ」ということになり、素性がバレてマスタル・コースへの編入をされたわけです。

 結果、持ち合わせの時間の中で、炎天下の詰め込みレッスンを受けることが出来、一緒に練習していたマスタル候補者からも一目置かれて、無事マスタルとなることになれました。

 これはやはり、カンフーの練習で武術としての基礎をしっかり作っていたこと、そして武術家としての生き方がすでにあったことの結果ではないかと思っています。 

 もし、いま現在学んでいる武術で行き詰っている人や本格的に武術家としての生き方を検討している人が居たなら、参考までにと思うところありまして書きました。

 才能のある人間や強い人間は、いくらでもいます。

 それこそ毎年、何百という格闘技や武道のチャンピオンが各世代、各階級で生まれています。

 しかし、そのうち、生涯の物として伝承者に認められる人間がどれだけいるでしょうか。

 ただの才子ではいくらでも換わりがいるのです。

 それよりも、生き方が信頼できる人間であるということをよく意識してください。

 それがすべての人々にとって良い結果につながることだと思っております。

 大切なのは、生き方です。

真伝への道

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 さて、前回は如何にして人は師に認められるかを書きましたが、これは本当に重要な物です。

 現代武道や格闘技ならば、自分の工夫で地力を作っていって、それが自分の○○流、○○道だと言っても間違いではないのでしょう。それが大乗の物でしょうから。

 しかし、小乗の物である伝統武術の場合、そうはいきません。

 師匠の身内となり、その流派の内部の人間とならないと、本当のことを教えてもらえないからです。

 そんなことあるの? と思う人もいるかもしれませんが、十人入門してその全員がやるのはあくまで公開範囲までの形。その意味はお客さんレベルの人には教えてもらえません。

 古流の動きには「これなんの意味があるの?」「これどうやって使うものなの?」というような物が多々ありますが、それを教えてもらえるのは内側の人間だけです。

 その意味にも段階があり、単純な用法から、練体の仕方、果てはそれへの破法、さらに破法への破法といった裏の形までを伝授されるのは師範クラスのみだと言って差し支えないでしょう。

 そして師範といのは、単に部活のセンパイ程度の意味の連中ではなく、疑似的な親子関係を師と持った人間だけです。これを徒弟といいます。本当の後継者候補です。

 このレベルの人達と、それ以外の人とではやる内容が全く違います。そこを勘違いして、Aさんは○○流の遣い手だとか××拳だなどと言いますが、大間違いです。本当にそう言っていいのはその流派の一部だと認められた徒弟だけです。

 たとえるなら、流儀武術とは師匠の子だと思ってもよいでしょう。

 その子と結婚して入り婿や嫁としてその家の人間になり、その家の人間として生きてゆく者だけが縁戚関係を通して養子となれるのです。

 そういった覚悟もなく、浅いところでチャプチャプ遊んでいたいだけの人が伝系を継ぐということは本来ありえない。

 これが現代社会では難しいことです。

 しかし、流儀武術とはあくまでその宗家の家の私物なので、他人が苦情を申し立てる筋合いはありません。 

 私財であるがゆえに、ある日師匠が気まぐれを起こせば内容が変わってしまったりもします。

 私の知ってるある流派では、老師が時代劇を見て面白いと思った動きが入っていたりしました。こうなると元々の形をそのまま学ぶことは出来ません。

 私の知って居る先生の中にも、次々と新しい技を編み出していってペガサス拳だアンドロメダ拳だなどと言う物を教示している方もいらっしゃいます。

 これもまた、本来の流儀の内容が学べなくなってしまうケースでしょう。

 そう言った危険性を冒す可能性もあるので、徒弟からの師の選択もまた一生を左右する重要な判断となります。

 そう言ったことがあるために、時間をかけてきちんと自分に望ましい師を選ぶことは大切なのです。

 信頼できない師や、不誠実な徒弟を持つとお互いに不幸な年月の浪費となってしまいます。

 幸いうちの蔡李佛拳は大乗系で初めからカリキュラムが明確に組まれているため、私は入門時にどのくらいまでの内容までやりたいのかを聞いて、それを目安に階梯を組んで指導をしています。

 これがもし、小乗系であったなら、学ぶ側はいつまで経っても自分がどこを目指して何をやっているのかわからずに不安になったことでしょう。

 ここにまた、危険な誘惑があります。

 こうなると、ある程度まで進んだ徒弟候補が、他派を併修するようになり、それを持って自流の自分にかけていることを補おうとしてしまうことがままあるのです。

 自分で本来の流派の形をゆがめてしまうのですね。

 そうやってどんどん教わったことは違う物になり、どこの何とも知れないミックス武術となってゆきます。 

 こうなると師の方としても、もうその徒弟候補を後継者として認めることは出来なくなってしまいます。自分の知らない謎のミックス流派なのだから当然です。

 現在、いくつもの流派を継承している先生で実力があると一目置かれている人は、えてしてどの流派もまったく別の物として分けているという傾向が見られます。

 一流ごとの実力が十分に足りていれば、けっして混ぜ物でかさましをする必要などないからです。

 そのようなことをしてしまう人としない人の区別は、一体どこにあるのでしょうか。

 私が思うには、公私のケジメという心の有無のように思います。

 混ぜてしまう人は、自分の何か喧嘩強さだか何だかを中心に物を考えているがために、どんどんいろいろな物を自分につけたしていってしまうのでしょう。

 ○○拳の蹴り、○○道の戦法、××流の手技、と。そうやって、洗練された流儀武術を自己流の総合格闘技にしてしまいます。

 この公私のケジメに関して、明確に判別がついたことがありました。

 大体、師門から禁足をされる人というのは、すぐに師の名前を出すのです。

「俺に何かあったら○○先生が黙ってないぞ」などと師の威を吹聴します。

 このタイプの人は、忠誠心があるのではなくて自己愛からの看板への執着が強いだけです。

 こういう人は後継者にはなれない。

 逆に、公の心を持って道系に向き合っている人は、自分が何かへまをしたら師や同門に迷惑が掛かると意識して、常に身を収めることになります。

 その結果が、より武術家としての自覚を産み、信頼を高めることとなります。

 それは師匠としては、後者のような安心できる人に自分の家族たちを任せたいと思うのは当然でしょう。

 私は武林での仲間たちとの付き合いに際してもかなり口うるさい方なのですが、これは鴻勝館の師父は自覚がないなどと思われては先人に申し訳がないからです。

 そのために、自分が師父だと知られているところでは常にふるまいや道義に注意を払わざるを得ません。

 ろくでもないところの連中とつるんでいぎたないことをしているなどと誤解されないためにも、付き合う人々も選ばせていただいております。

 若手の師父と名乗る人間の中には、はき違えて行動の汚い人間も多くはありません。

 それでも袖すり合って友となれば、せめてもの私に出来ることとして口うるさく道を説くのですが、あまりうまくゆくことは多くないようです。

 そして、最終的にはそう言った人たちは追放されてしまいます。

 その後も大抵の場合、自分に原因があるのだとは振り返らずに、まるで無罪の者であるように他を恨んで嘆いているようです。
 公私のケジメを持つことが出来ないというのは不幸なことです。

 それは武術を学ぶ上で絶対に必要なことだからです。

 なぜなら、武術とは客観的に割り切られた真理の追及であるからです。

 本来シビアな闘争術より始まった物だと思えば、情緒的な甘えなど最初から介在していないのは当然のことでしょう。

 自他ともに命がけで、結果的により正しかった者だけが生き残れる可能性が高いと言ったような厳しい環境での訓練から始まっているので、ひたすらな正しさへの忠誠がまず求められるのです。

 感情もスピリチュアルも、本来入り込む余地などないのです。

 そこから始めた人間だけが、武術の真実と一つになれるのではないかと思っています。

 荘子には、タオは個人が所有することのできるものではないとあります。

 真実のぐげんである武術であるなら、それを誰かが私物化することはもとより出来ないのです。

 いや、口幅ったいことばかり書きました。本当に私は口うるさい。

師から離れる

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 ここのところ、師弟のことについていろいろ書いてきましたが、物理的な距離が開いてしまったり、師範として支部を設立することになったりと、師から離れてやっていかなければいけない状況について、今回は書いてみたいと思います。

 私自身もいろいろな先生方にお世話になったので、それだけの数の別れを経験してきたのですが、その中でも最も自分自身の人生の転機となったのは、ある中国武術の先生の元を離れたときのことです。

 その先生はすごい功夫の持ち主で、自分もそれを身につけたくて長いことついていたのですが、どうも人に物を教えられるタイプの方ではなく、またその内容も普通の人にはとても伝えることのできないくらい難しい物だったため、私は一向に成果を表すことが出来ないどころか、はじめてから一歩も前に進んでいないまま年月だけが経っていました。

 おそらく、日本的な考え方ならそのまま忍耐して続けてゆくべし、となるのでしょうが、しかし、私はこれ以上、自分の希望と将来への責任を、先生にゆだねてゆくことが間違っていると思うようになりました。

 自分の人生に自分で責任をもって生きてゆく、という基本に帰ろうと思ったのです。

 そのうえで修行をして行って、それで物にならなかったらそれも自己責任で、持たざる者として生きてゆくほかありません。

 いずれ物にならないなら、せめて誠実な生き方をしたいと思いました。

 そこで、先生の元を離れることにしたのです。

 結果的に、私はいまにいたることが出来たのですが、あれはいまでも胸の痛むことでした。

 ただ仲良くなれあって出来ない人間として生きてゆくという選択肢も、そこにはあったのです。

 たまたまうまく行ったからよかったですが、すべてを捨てる決意が必要でした。

 もう一つ、師から物理的に離れた話と言えば、このたびのフィリピンのグランド・マスタルから距離を経たというのもそうですね。

 もちろん今でも連絡は取り合いますし、いずれまた向こうに行ったときに習うことの予定もうかがっています。

 しかし、実際のところとして毎週稽古をつけてもらえる環境に居ないのは事実です。

 それが前提で、グランド・マスタルは稽古をつけてくれました。つまり、自分で自分を向上させることが出来る自立した人間としてやってゆけるようにです。

 いくつもの教えが心に残っています。

 ことあるごとに言われたのが「REVEW REVEW」「PLACTICE」。復習をしろ。訓練をしろ。です。

 一回目にやったときにイマイチだと思った動作を、二度目に行うときは是正する。三度目は別の場所を改善する。そうやって一人で上手くなれる姿勢を指示してくれました。

 最後の日には「CONTINUE TRAIN.NEVER STOP」と言ってもらい、「もう大丈夫だ。これからは自分で学び続けるんだ。迷ったらタイヤを叩け。タイヤがお前に教えてくれる」と送り出してくれました。

 ここでもやはり、自分自身への責任、自覚が出てきます。

 仮にもマスタルとして基本を教わって送り出してもらうのですから、いつまでもおんぶにだっこというわけにはいきません。

 教わったことに照らし合わせて何が正しいかを判断して、自分で責任をもって行ってゆかねばなりません。

 そのようなとき、やはりエゴは邪魔になる物だと思います。

 アルニスは中国武術ではありませんが、やはり同じように自分に都合の良いように理屈を曲げては、教わった物をそのままに向上させてゆくことは出来ないと思います。

 与えてもらった術の命を、まっすぐに育ませてゆくことが、離れても師の代理人として活動してゆく人間の役割だと思っています。

 

 

  

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