ここまで、アメリカの歴史を端折って書いてきました。
現在のトランプ政権を支えているのは、まさに陰陽の反応的な、オバマ政権の支持者の反対側にいる人々だと書きました。
ディキシー・ランドではバイブル・ベルトと呼ばれるWASPの開拓した地域がその人々の中心となっています。
彼らはプロテスタントの教義に熱心な人々であると同時に、外部でバイブル・ベルトと言う言葉を使うときには「保守的な」「反知性主義的な」という意味合いを持つことがある地域の人々です。
ヤンキーの地域においては、ラスト・ベルトといわれる地帯の人々が中心になっています。
ラストとは錆びのことです。
もともとは工業地帯だったのですが、現在は産業が廃れてしまったので工場がさび付いているという意味でそう呼ばれています。
すなわち、もともと南北戦争を争った綿花農業主たちと工業地帯の人々の両方がトランプ政権を支えているのです。
それは、トランプ大統領の方針がそのような古き良き時代のアメリカの考えに寄り添っているからです。
そのことをトランプ大統領は「アメリカ・ファースト」と呼んでいます。
世界の警察たる立場や世界のリーダーとしての采配ではなく、アメリカの利益、もっと言うと南北戦争時代のアングロ・サクソンとヤンキー層のためのアメリカの利益を最優先するということです。
では、なぜそのようなことが必要になってしまったのかというと、トランプ氏本人は、中国が強くなってきたからだと言います。
冷戦でソ連に勝利して世界最強の国になったと思っていたら、真の敵は中国という大国だったということが明らかになり、それがあまりにも強くなってきてなりふり構っていては現状の維持さえできないので必死になってとにかく立ち向かおうとしているというのです。
これも陰陽思想的な反応ですよね。
なぜ私がここまでこのことを書き続けてきたのかはこのためです。
東洋思想、さらに言うと中華と言う具体と対応したキリスト教圏という文化圏の発展と敵対を書くことで、地球全体の陰陽のバランスについて書いてきたのです。
そのためにアメリカと言う現行のキリスト教圏のリーダー国のなりたちをその教義の発祥から書いてきました。
孫子です。
このような大国同士の相克を読むことは、立派に武術家の仕事ではありますまいか?
少し前まで、力の流れを読むと言うことについての記事をよく書いてきました。
これが私なりの世界情勢における力の流れを読むと言うことです。
気、すなわち力の流れを感じて読むと言うことこそが中国武術家および気功家の根本にある物です。
なので、この程度の世界情勢の見立てをして人に伝えることが出来ないようでは、伝統武術家だなんだと言うには片腹痛い。
少林武術というのは、お釈迦様による社会からの救済の方法を本質としています。
それはすなわち、自己の確立と智の獲得ということでしょう。少なくとも私はそう思っています。
だからこそ、少林武術や少林気功を学ぶとはその両者をかなえるための物でなければならない。
世界でいま、何が起きているのかを学び、それを読んで人に伝えられないと本物の拳師とはとても言えない。
功夫とはただの、ぶったりけったり物を振り回したりということでは断じてないのです。
人は、自分の命の持っている力と時間しか活用することが出来ません。
それをプロテスタントでは、すべてが神にプログラムされている物だとして、スコアを稼いでミッションをクリアしてゆく物のように見立てました。
まるでRPGです。
日本でもいい年した大人が「経験値を積んで……」などとバカげた言葉を口にしますが、そんな日本語は存在しない。
あるのは「経験」であって経験とは数値ではない。
アメリカの後追い社会で物を考えずにきてしまったからこそ、そのようなロール・プレイング・ゲームまがいの人生を真に受けてしまうのでしょう。
だから他人のことをNPC扱いしてしまうのです。
自分と同じ、対等の一つの世界だと言うことを感じることが出来ていない。
伝統や歴史とは、自分一人では経験することが出来ない部分の知恵の継承です。
戦後の形式主義や軍隊的な上辺の同調で振りかざすような物では決してない。
一人一人が一つの世界であり、それを確立して自分で自由に運営してゆくための方法を延ばしてゆけないのなら、とてもではないが伝統武術の師父だとは言えないのではないでしょうか。
だから、私はこれを書いたのです。
武術を学んだというのはこういう物の見方をするということだ、ということを顕すために。
膝が曲がらなくても、物が持てなくても、いつ発作が起きて死んでもおかしくない状態でも、こうして人の心や国に働く力の方向を読むことは出来るのです。
これはいまだに、世界を相手に武術をしているということです。
飛んだり跳ねたり試合をしたりということを目的にしているのとはまったく違います。
もっと大きい物を見て、生きようとしている。
それは、大きな物を受け継ぐことが出来たからです。
本物には、それだけの大きさがあるのです。