イギリスのエージェントとして「中国辺り」に乗り込んで勢力図の書き換えを画策していたラッフルズでしたが、その最中にヨーロッパでナポレオン戦争が終結します。
これによってイギリス、フランス、オランダの間で東南アジアにおける領地の再分配がされたことで勢力図が大きく変わりました。
また、アヘン戦争による香港の獲得などもあり、ラッフルズおよびイギリスの勢力圏はより東側に移行してゆくこととなりました。
このラインはマレーシアのペナン、シンガポール、香港、上海というラインを主軸として発展してゆくことになりました。
このころのシンガポールにおいては、中国系の人口が急増していました。
この土地の当時の産業はすべて秘密結社、すなわち我々南少林の兄弟たちの手によって運用されていました。
イギリスの進出は彼等の活動と直結する形で行われ、これは双方の勢力の拡大を意味していました。
しかし、勢力が強くなるにつれて中華系結社の間での抗争が激化しました。
イギリスはそれを問題視し、彼等との距離の取り方を模索することになります。
また、彼等はすでに大昔から成立している中華帝国の勢力圏の上に乗っかる形で共に発展してきていたのですが、当時この海域でより影響力を持っていた存在がありました。
それが前に出てきたブギス人です。
彼らはインドネシア、マレーの辺りを武装商船で行き来して貿易を行っていた海賊衆です。
初期のエスクリマドールが仮想敵としていた「海賊」の中で、彼等が占めていた割合はかなり高かったものだと思われます。
彼ら王族や貴族が四十人から百人弱の手勢が乗る船数十隻をして船団を作り、東インドでは略奪を働いて奴隷を狩り、マレーの勢力圏んでは現地の王族の傭兵となり、のちには領地を買って勢力を拡大していました。
海賊海域の勢力と言うのは大変な物です。
フィリピンで言うならミンダナオに居たイラヌン人という人々の海賊船団は、船にして五十隻、人にして千人と言った規模の物でした。フィリピン武術というのはこういうルーツを持っているのですね。
こういった海賊を率いる海賊の王達がそこここに勢力圏を持っており、彼らの力の均衡が海域の均衡でした。
ラッフルズの計画は、彼等海賊衆を治める海賊王の位置にイギリス東インド会社を据えてこの海域を掌握することでした。
つづく