私たちの大師は、大変怜悧にして厳しいかただったと聞きます。
生徒が出来ないとひどく嘆かれるそうで、その中でも特に答えたと前世代から聞くのが「お前のカンフー、まだ始まってないよ」と広東語なまりで言われることだったそうです。
確かに、長く功を積んでいてこれを言われれば大変堪えることでしょう。
では、カンフーが始まるとはどのようなことでしょう?
とても難しい問題です。
ここで、道は遠くにありて求めるもの、的な棚上げをしてしまえば話は楽なんですが、中国思想では道とは常にそばにあるもの、きれいごとで片づけるようなことをしてしまってはそれこそ永久にカンフーは始まりません。常に具体的に考えてこその中国武術です。
大師の言葉には、精神的なことや人生の段階などを意味しているのでしょうが、私が個人的にどこからカンフーが始まるかと設定するならば、それは「ちゃんと立ててちゃんと歩けるようになってから」です。
では、「ちゃんと立ててちゃんと歩ける」とはどういうことを言えばよいでしょうか。
それは、発勁が出来る状態で立てて発勁が出来る状態のまま歩けることです。
ここに私たちの門派の特徴があります。
常に打てる状態で居る。
これを私は、南船の勁と呼んでいます。
揺れる船の上で流姿を維持できるところにすべてが始まっているという気がしています。
多くの門派は、平時は普通にトコトコ歩いていて、一朝ことあるや、ドン、と震脚して一気に発勁状態にスイッチ、という物が多いようです。
昔、私が学んでいたある魔拳は、六勁と言って前後左右上下の方向に同時勁を発しそれらを合わせて一つの方向に打つという理論で作られていました。その場合、一気に六勁を爆発させるような動作を起こします。その際、やはり上下運動が伴っていることになります。
対して、私たちの蔡李佛はそのようなことをまるでしない。
上下に跳ねたら船がひっくり返ってしまう。
なのでつまり、正しく発勁が出来るということはつまり、正しく立てて正しく歩けるということにつながります。
これが出来れば、手や足だけでなく、そのまま身体(靠や肩打)で打てるようになります。
逆を返せば、それらの打が出来ない人は「まだカンフーが始まってない」ということになります。
これをただ行儀意識的に厳しいと取られてしまうと大いに誤解となります。
それをきちんと出来るようにする具体的な練功法がきちんと伝わっていて、それを行えば誰にでも出来るということにこそ、重要な我が派の価値があると考えています。